m2の思い出
夏休み最初のゼミ。今日から4年も参加して卒論、修論の発表を行なう。まあなんと言うか進んでいる人もいれば、進んでない人もいる。前回のゼミから1ヶ月たっているのだが。1ヶ月これだけしか進まないって牛歩戦術か?脳ミソも日照りかねえ?まあ振り返って僕が修士2年の夏の今頃は何をしていただろうか?uclaを修了してニューヨークにいた(はず)。uclaの友人の精神科医がバカンスでヨーロッパに行っているので1ヶ月くらいその部屋をすっかり我が家のように使っていた。毎日何をしていたかというとニューヨークの町をひたすら歩いていた。今日はこの道をマンハッタンの北から南まで縦断するとか。今日はブルックリンブリッジを歩いて渡りブルックリンを散策するとか。今日はサウスブロンクス行くとか。結構怖かった。まるで昼間の肝試しのような。夜は夜でひたすら歩いていた。これはもっと怖かった。でも修論でニューヨークの摩天楼を書くと決めていたので摩天楼を昼も夜もじっとみつつ歩きつつ本屋行ったり図書館行ったりしてskyscraperと名のつくものはとにかく漁っていた。毎日夜中は文献を読んでいた。しかしカードを作るでもなく、もちろん何かを書くまでには至っていない。その意味では今の2年生よりかは遥かに遅れていたのかもしれない。しかし頭の中ではおぼろげに論文の骨格は日々固まっていたような気もする。修論のレジメの第一回めは10月の日付なのだからよく書けたものだと感心する。あたりまえだけれどそのころは寝ても覚めても論文だった。
2時のアサマで事務所に戻る。中国の現場に行っているナカジからメール。中国の労働者は土日なしで働いているようだが基礎配筋が遅れている。まだ検査に至ってない途中段階だが配筋の一部入れ忘れが見つかるなど、心配は尽きない。6時にクライアントの赤坂の事務所にタクシーを飛ばす。竣工をせかされており純粋木造で行く予定だったが、大開口の中に柱が落ちますよというと鉄骨を入れようという。そうすると工期が延びますよというとそれでも是非柱を抜きたいという。それは自分のためでもあり、設計者の名誉のためでもあると言う。嬉しいい言葉だが、役所がどの程度の混構造を認めるだろうか?打診中だが答えは未だ。昨今の厳しい状況の中、よい解答がもどってくるかどうか心もとない。