場所感の喪失
朝事務所で模型を作る。なんだかこの「ダサい」感じはいいんだか悪いんだかよく分からない。もちろん正解ではないのだが、少しヒントがありそうな気がしている。来週からバイトがやっと来るということなのでわんさか模型を作ってもらおう。そのためにはスケッチもわんさか作らねばならないのだが。午後打合せ。スタッフの意見もあっち行ったり、こっち行ったり。まだまだスケッチの量が少ない。久々の自由な敷地なので打つ手が多すぎる。放っておくとフォルマリズムに流れていく。生活感が希薄なのである程度仕方ないとしてもそれだけでは意味が無い。見る風景、見られる風景。この緩やかな勾配との馴染み方。
休み無く出ずっぱりで少々ばててきた。帰宅後夕食まで大の字で倒れる。夕食後、ジョシュア・メイロウイッツ安川一他訳『場所感の喪失』新曜社2003を読む。A0勉強会に来る社会学者のm君に教えてもらった本である。イントロを読んでいるとゴッフマンの相互行為論とマクルーハンのメディア論を相補的に扱いながら現代のコミュニケーションを考えようというものらしい。ここからはこの本の内容についての想像だが、、、電子メディアにおける情報の発信や対応は特定少数より不特定多数に向けることの方がデフォルトな場合が多い。ブログもいい例である。これを特定の人だけに開示するのは結構面倒である。リアルな社会では不特定多数に情報を発信する(例えば駅まで演説する)方が個人に何かを伝える(手紙を書く)より物理的にも精神的にも大変なのだが、電子メディア上ではその差は殆ど無い。個人と言うものは常にその個人の居る場所との関連性が強く意識されるものだが、不特定多数ではまさに特定できない。相手がどこに居るのか皆目検討がつかない。そこに電子メディアコミュニケーションにおける場所感の喪失が起こる。イントロを読みながら内容をこう予想してみた。