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迷惑論

4月1日
内田樹の『下流志向』という本がある。これは昨今の子供が何故勉強しないのか、昨今の若者が何故働かないのかを分析している。昨今の子供は労働よりも消費の側面で社会に先ず参入する。消費行動の思考原理が教育を受ける時にも現れるという。例えば「何故この勉強をしなければならないのか?」と問う。「この勉強をすることによって何が自分の得になるのか?」と。つまり勉強するという苦役に対する対価を予め確定しない限りこの交換は成立しないと考えるというのである。これを読んで僕は大いに笑った。自分も高校一年の現代国語の最初の授業で老齢の物静かな教師に向かって同じ問いを発したからだ。更に内田は「こどもは学習の主権的で自由な主体」ではなく、学びの主体とは学びの運動に巻き込まれつつ事後的に形成されると言う。言わんとすることは大いに納得するのだが、自分がそうではない事は明らかで、そうなると自分の子供には内田さんのような理屈をたてることはできないなあと苦笑してしまった。もう一つこれはおおいに納得しかつそうありたいと思った部分がある。彼のリスクヘッジ論である。現在、社会的弱者が生まれることの一因に、社会のセイフティネットの機能不全を挙げている。それを身近な部分で解消していくためには「迷惑をかけるかけられる」関係を社会の中から原理的に排除しない方がよい。という主張である。確かにわが身を振り返っても、人に迷惑をかけてはいけないと思い行動し、ひとの迷惑が降りかかりそうになれば逃げ回る。そうすると子供も迷惑かけないのだから何してもよいという発想になる。これはある程度仕方ないかなと思っていたが、やはりまずいと思い直させられた。完璧な人というのは自分も含めていないわけで、完璧でないことを否定するとどうも世の中ぎすぎすし過ぎる。人は失敗はするという前提の方が世の中円滑かもしれない。人の迷惑も2回に1回は受け取ることにしよう。と内田さんの本を読みながら思った。

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コメント

内田樹の村上春樹論とブログはおもしろいですよ。
時々見てます。

覗いてみましょう。

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