建築とジェンダー
3月2日
書類を取りに午前中事務所に。渡辺さんが一人仕事をしていた。午後早稲田のパワポ作り。夕飯を食べて長野に向かう。新幹線で移動中、ロンドンの友人から電話。来週飲もうとの誘いだがあいにく両方の都合がつかず、また今度。車中、熊倉敬聡、千野香織『新たなジェンダー批評に向けて、女、日本、美』慶応義塾大学出版会1999を読む。早稲田の授業で建築とジェンダーをとりあげたいのだが、一体そんな問いは可能なのか?アートはジェンダーとの関係が強いが建築はそもそも社会構築的とは言えジェンダーとは少々かけ離れている。そう思ってこのテーマを諦めかけていたのだが、少しヒントを発見。例えば、「モダニズムとは異性愛、白人男性こそが『主体』である」というような指摘。確かにそうかもしれない。アメリカのゲイアーキテクトが大量にカミングアウトしたのは70年代だったように思う。ムーア設計の恋人と住む家には一階の真ん中にジャクジーがあった。ジェンダーが住宅プランを自由にしたか?また目を日本に転じれば、家父長制が崩壊していく過程はそのまま戦前戦後の住宅プランの変遷に対応している。父の接客スペースが南、母の厨房は北という平面は、家族のldkが接客スペースにとって代わり、そして父の居る場所はもはや無いのが現代の住宅である。またもう少し観念的に考えれば、フォーティーが言うように有史以来、建築は男性性に支えられてきた。女性的で良い建築など少数の例外を除いて存在しなかった。しかし堅固で頑強という建築本来の男性的属性はフラジャイルな女性的「美」に追い抜かれた感がある。例えば「透明建築」が世を席巻したのはガラス技術の進化のみならず、女性性の優位あるいは男性性の後退と関係しているのではなかろうか?
などなどやはり建築もジェンダーに構築されている部分は多々ありそうである。