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大衆との共振

電車の中で成実弘至のファッション文化史を読んでいて妙に腑に落ちることがあった。それはアメリカンカジュアルの創始者クレア・マッカーデルの部分を読みながらであった。マッカーデルはシャネル同様古典的な服飾を革命的に瓦解したと言われている。しかし二人には大きな差異があり、それは前者が上流階級を相手にし、後者は限りなく一般大衆の身体に結びついていた点である。そこを読みながら、僕は先日買った中野正貴の写真集、My Lost Americaを眺めていた時の気分を反芻していた。80年代のアメリカに感情移入しイカレタその気分をである。イカレタ理由は80年代自分がアメリカにいたからだろうとその時は思ったのだが、今日成実の本を読みながら理由は別だなと感じた。
少し恥かしい話だが、これはどうも僕の生い立ちの中で培われた精神性の中に原因があるように思われた。並みの家庭で育った僕は経済的には中流だが、60年代の日本の平均からすると文化的にはかなりレベルの高い親に育てられ、ある種の情操教育を受けていた。しかし一方でピュアなマルキストな父親の影響があったからだと思うが、根底に体制を嫌悪し権威をあざ笑う精神性が子供のうちから染みついてしまった。情操教育と権威批判は必ずしも矛盾するモノではないのだが、だからと言って相性の良いものではない。そもそも文化的情操教育なるものは権威のお墨付きを得てこそ達成されるものだから。
そんな矛盾が結局、自らの進む道を純粋な芸術から遠ざけ、建築などに向かわせたのかもしれない。そして、こうした精神性は高貴なハイカルチャーを志向すると同時に、そこに胡散臭さを見てしまう自分を生み出した。例えばヨーロッパの建築や文化の研ぎ澄まされた感覚を称揚しつつその中に虚構を見、アメリカの弛緩した空気に安堵を覚える自分を作り出したように思われるのである。マッカーデルの志向はそうした僕の」安堵」を思い出させた。つまりMy Lost Americaを見ながらイカレタ僕の気持ちとは「一般大衆の身体」が持つ精神性への本能的な共振だったと納得されたのである。

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