視覚
アサマの最終に乗り東京へ。帰路マーティン・ジェイの「近代性における複数の『視の制度』」ハル・フォスター編『視覚論』平凡社2007所収を読む。マーティンによれば、近代を支配した視覚は主として3つある。一つはデカルト的遠近法主義。これはさもありなんである。二つ目を飛ばし、三つめはバロックである。これはヴェルフリンを引き合いに出して説明される。これは近代の視覚と言えばそうだが特にモダニズムの基盤となった視覚と一般には言われていないと思われる(マーティンの「近代」という言葉の射程が曖昧ではあるが)。90年代後半でこそバロック的なものが世に多く登場してはいるのだがこのテクストが書かれたのは1987年以前ということを考えると時代を先取りしていると言えなくも無い。しかしそれにしてもこの二つはよしとして、この二つにはさまれた二つ目の視覚は予想外である。それは主体性が強調されたデカルト的遠近法に対して、同じ遠近法ではあるが主体性が欠如して見られるものの物語性が喪失した17世紀のオランダ美術の視覚だと言うのである。その典型としてあげられるのがフェルメールである。マーティンはスヴェトラーナ・アルパースのフェルメールの描写術の説明を引用するのだが、要はフェルメールの描き方の特徴はルネッサンスに比べて構図がランダムであり、対象は多数、対象の輪郭よりかその表面の物質感が重要だとするのである。言われてみれば確かにそのとおりなのだがこれがモダニズムを支えていた視覚の典型かと言われるとこれもやや疑問であり、むしろこれまた恐ろしく今日的で87年という年代を考えると時代を先取りしていると思えるのである。面白い論考に興奮しているうちに東京。
東京は長野同様雨のようだがかなり気温が高い。行く時着ていたウールのジャケットは東京では着ていられない。この季節は当分着るものに苦労しそうである。