倫理としてのモード
倫理とは平たく言えば「人間のあり方」「世間のありさま」であり、倫理の構造を考える契機は、習俗と道徳と法律だと佐藤俊夫の『倫理学』に記されている。更にこの習俗とは習慣と風俗から構成され、これらは礼儀(marnner)と流行(mode)という対極的概念を両極に持つ型によって生み出されるという。modeなるもの社会倫理を形成する極めて重要な要素であることがよく分かる。こうしたmode研究ではもちろんバルトが有名(『モードの体系』)であるが、もう少し社会学的視点から語られたものがないものか探していたらなかなかよい本を見つけた。ジョアン・フィンケルシュタインというオーストラリアの社会学者が書いた『ファッションの文化社会学』成実弘至訳、せりか書房2007である。ここでは数々のmode研究が紹介されている。その一つ、ソースティン・ヴエブレンの『有閑階級の理論』(1899)はなかなか示唆に富む。「流行とは上流階級の人々が自分たちを下層階級と区別するためにつくったトリックなのだ。・・・流行が下層階級へと『滴り落ちていく』とき、上流階級はまた新しい美学を作らねばならない」。
100年前の階級社会のこうした理論が現代日本に直接当てはまるわけではないのだが、流行の本質は殆ど変わらない。つまり、経済的な格差が小さい日本でも感覚的格差と呼ばれるものが構造化されている。そして流行とはこうした感覚上流階級(として位置づけられている)が生み出し下層階級(と位置づけられている)へ滴り落ちていくのである。そしてある普及をした時点で感覚上流階級は差異化を図る(ことで自らの地位を確保する)ために、新たな美学を創らねばならなくなるのである。結局アートもモードも建築もこの滴り落ちる時間に若干の差があるだけでその基本構造は同じと思われる。