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新たな風景

とても久しぶりに雨だし、とても久しぶりに寒いという感覚を持つ朝である。雨で運動会の代わりに授業となったアンラッキーな娘を送り出し安彦一恵、佐藤康邦『風景の哲学』ナカニシヤ出版2002を読む。風景の良し悪しとは誰がどのような権利を持って言える事なのか?という問題提起があり、その一つの回答は和辻哲郎の『風土』に記されているところの自己了解というプロセスである。またその自己了解のダイナミズムは自然と人知の接点において生まれるとのことである。大いに共感する。五十嵐氏が批判した「美しい風景を創る会」なるものは普遍的な景観美が前提化されているようだがこう言う考えは私もやや批判的にならざるを得ない。和辻が言うような自己了解のプロセスが欠けている。普遍的な美の前提化とは過去に示された判例のような美に我々が飼いならされていることをよしとしていることに等しい。それはおかしい。午後フェルメールを見に行く。これら新たにオランダに発生した風俗画と同時期に風景画も生まれた。このころ人間の側に強く景観を風景化する自己了解が生まれたと言えるのであろう。しかしこれはあくまで17世紀オランダの自己了解である。21世紀日本にはまた違う何かがあるはずである。その一つが昨日紹介したテクノスケープである。そして例えば宮本佳明の『環境ノイズを読み風景をつくる』彰国社2007はそうした新しい風景の読み方を提示している。

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