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反・方法主義

A0勉強会。亀のようにゆっくり進む。倫理的誤謬の章を未だやっている。光岡訳は15ページくらいあるのだが、5時間で1ページくらいしか進まない。まだこの章が終わったわけではないけれど荒筋はロマ主義も機械論もピューリタニズムの思潮(純粋道徳主義)に後押しされながらこの時代の建築倫理(これがどうもゴシックリバイバルにおける構造的な倫理のことのようなのだが)に繋がっているということのようである。そしてこの構造的理性の制覇に対する反論が人文主義に繋がるのだが、、、、疲れた頭を引っさげ飯を食ってから長野に向かうアサマの中で鷲田清一の新刊(とはいっても初出ではないが)『思考のエシックスー反方法主義論』ナカニシヤ出版2007を読む。
先ずは近代哲学とはデカルトの『方法序説』に始まり方法主義的制覇の時代であるという。そしてその制覇のために据えられた概念が自律でありそれを支えるトポスとしての純粋があるという。「ピューリタンから『純粋理性批判』まで「ピュア」という観念はくりかえし1つの運動、ひとつの理念の名に冠せられてきた」と言う。そしてこの方法という理念は様々な分野で実体化する。「航海においては海図、建築においては設計図といった具合に、そこではなんらかの見通し、ないしは構想といったものを欠くことはできない」と述べる。僕の昔の論考で言えば全体性批判に相当するようなこの指摘には素直に共感。更にこうした方法主義的制覇への批判を行なったのがサルトルとガダマーだという。ガダマーの『真理と方法』は「近代の知の地平において次第に失われていったフマニスム〔人文主義〕の伝統を復権することで、真理をその方法主義的制覇から救済しようというモチーフである」と指摘した。
このあたりまで読んでくると、昼に苦しんで読んでいたスコットの倫理批判がどうしたって重なってくるではないか。しかしガダマーが真理と方法を練り上げたのは60年代だからスコットの発想はその40年も前のことであり、そこに1つの思潮としての流れがあるのかどうかはよくわからない。しかし人文主義が近代的知への批判として用いられていたということはスコットを読む上では重要なポイントかもしれない。

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