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言説(写真)分析

昨日は松本キャンパス、今日は上田(繊維学部)キャンパスで信大ガイダンスである。宣伝が行き届いていないのか、高校の文化祭が同日にあるからか、上田がやや不便なのか分からないが、昨日より更に来場者は少ない。ちょっと残念である。
昨晩から読み始めた赤川学『構築主義を再構築する』勁草書房2006は予想通り今欲しい知識が並んでいる。因みにこの著者は去年まで信州大学にいたようである。さてこの本は言説分析の可能性を構築主義にからめて語るものである。言説分析は社会学の分野で生き残れるかどうかの瀬戸際だそうだ。しかし著者は自ら言説分析学者としてその正当性を主張する。言説分析に対する素朴な問いは、「言葉はそうだろうが実体はどうなの?」というものだそうだ、しかし実体なるものの存在は疑いないものなのか?むしろ実体というものはその分析手法の数だけ存在しておりアンケート調査、統計調査、等それぞれがそれぞれの実体を露にしているのであり、言説分析もそれ相応の実体を浮き彫りにするはずだと主張している。
さて私も昨年学生とともに建築における言説分析と写真分析を行なった。こうした分析の正当性を社会学の中に見出せないかと思っていた矢先にこの本を見つけた。社会学に疎いわれわれにとって本書はわれわれのナイーブな疑問に多くの示唆を与えてくれる(もちろんこの本の主張に批判的な説もあるのだが)。さてこの本の中で1つとても示唆に富むフーコーの言葉がある。それは言説とは「ひとつの時代において、ひとが(文法の諸規則および論理の諸規則にもとづいて)正しく言うことができることがらと、実際に言われたことがらとの差異によって構成される」というものである。この定義は言説においてそうであると同等に、別の対象にも当てはまらないだろうか?例えば写真である。社会分析においては写真もその実体に直接触れないという意味では言説と類似した対象のように思うからである。写真に即してフーコーの言葉を言いかれれば、「写真空間(言説に対応する写真にあてた便宜的な言葉だが)とは1つの時代において、ひとが(写真機およびフィルムの性能に対応して)撮影可能な写真と実際に撮影された写真との差異によって構成される」ということになる。まあ写真分析においては当たり前のことかもしれないが、こうして言葉にすることでその分析の行く末は多少明快になるように思われる。

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