ケージは音痴
昨日の帰り塩谷とジョンケージの「音痴」話で盛り上がった。彼女いわくミュージシャンというものは自らの作り出す、あるいは引く音を評価する。そして普通はそれが「良い悪い」というような単純な二項対立の評価基準だけではなく、10個くらいのクライテリアを持ってそれを判断できるものだが、ケージにはそれが無いということだった。あっ、それって昨日僕が町に対して言いたかったことと同じである。意味の濃淡、表裏、特別普通というような複数のクライテリアに微妙な差を感じ取る臭覚が必要だというのが僕の言いたかったことである。そうしたセンスの欠如をデリカシーが無いというのだろう。そしてデリカシーの無いケージは音を操るのではなく概念を操って音楽を作った。
そしてモダニズム音楽がそうなら、モダニズムアートのたとえば平面抽象のケネス・ノーランドなどもデリカシーが無い部類かもしれない。それを超えるコンセプトで作ってしまう。
文学ならどうなのだろうか?言葉の綾を読み分ける能力は僕にはあまり無いけれど最近の若い女流小説家の文章は水のようにさらりとしている。まあケージのようではない。綿谷りさの『蹴りたい背中』の後の第一作『夢を与える』を読む。その昔『インストール』を呼んだ時彼女はまだ高校生だったがその後、早稲田にはいり、もう卒業の年のようである。