人と都市の共同性
県立図書館で調べもの。ナンシーの『無為の共同体』における共同の相手は果たして人だけなのだろうか?人は死を自ら体験できないが他者の死は経験できる。そこにおいて死という観念を分有するところから人は《ともに生きる》というナンシーの思考はスタートし、共同性の根源的なあり方が説明されていく。ここにおいてはやはり共同を形成する因子は人と人なのだが、人と物の間では共同はありえないのだろうか?例えば家というものを考えた時、それが生きられた家であれば、例えばその家が崩壊(死)する時同様のことが起こらないだろうか?と考えてみた。家あるいは建築、もっと言えば都市という環境も共同するのではなかろうかというのが僕の仮説。もちろん『無為の共同体』にそんなことは書いて無いのだが。県立図書館を出て大学の図書館へ。マンフォードの『歴史の都市明日の都市』を借りてくる。中世都市が崩壊しバロック都市へ変貌するのは政治経済の変化によって説明されるのが一般である。もちろんその後の都市の変化もそれらの要因による。それは間違ってはいないであろう。しかしその陰で人と環境とはどのようなやりとりが行われていたのであろうか?再開発が人を土地から引き剥がす現代的な都市の殺伐とした風景を見るならば、過去においても同様の関係が生じており、そこにも人の根源的な共同のあり方としての都市が存在していたはずである。