崇高の強度
3年生の製図のエスキスを終えて帰宅(東京へ)。娘は修学旅行のようなものにでかけ、かみさんは友人と都内某ホテルに遊びに行った。誰もいない我が家に帰るのは調度一年前の今頃の様である。
昨晩ベッドの中で読んでいた『崇高とは何か』の訳者(梅木達郎)の解説が面白かった。というか凄く納得がいった。一般に崇高という概念はカントを基礎に、例えばリオタール等の理解は、人間の有限性で把捉しきれないものとしての「大きさ」や「力」なのだが、梅木氏はジャン=リュック・ナンシーをきっかけに、カントをもう少し詳細に読むことで、崇高を単に人間の有限性を超えた無限の中に見るのではなく有限と無限の境界上における往還運動と見るのである。有限がちらつくからこそ無限が意識されるというものである。この手の感覚の捉え方は僕の「建築のモノサシ」の主眼とするところである。僕の建築のモノサシも2項対立を言うのではなく、どちらかに偏る表現には強度が現われず、常に対立項の影が見え隠れするところにこそ表現の強度が現われるというもの。だからこの解釈がカントの正しい読解かどうかはべつとしてとても納得いくのである。