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第6講お題

本日から話は関係の規則となる。ここには4つの規則がありその最初が重箱と平皿である。おせち料理のような重箱料理においては食物の種類とその入れるべき場所にルールがある。一方平皿の大皿料理ではそういうルールはない。これを建築にたとえて今日の講義は展開した。建築にも重箱型と平皿型があるということである。
重箱建築とはその場所の目的とそのしつらえにある関数(function)関係があるものを指す。そしてその状態を機能的(functional)と呼ぶのである。一方そうした関数関係を排除し、場所に目的を与えない建築が平皿建築である。モダニズムは重箱で始まり、平皿になりポストモダニズムで平皿は攻撃されたが90年代平皿は復活そして現在はその合いの子が闊歩している状態である。
青木淳は遊び場を例に挙げ場所に目的を割り当てた遊び場を遊園地、割り当てない遊び場を原っぱと呼び原っぱの自由を称揚した。
さて今日のお題である。皆の周りにこうした場所と目的の緩い関係性を発見しその是非を論じて欲しい。

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わかりやすいものにビックハットがあると思う。大きな面積をもった箱がある。その中は先日スキー、ボード用品の販売会場となり、時にはライブが行われ、時にはスケートも行われる。あれだけの面積をとるが故にあの場所にこれだけの用途があることは効率的で良いことであると思う。
しかしサッカーの試合について考えてみると話は違ってくる。
国立競技場などのほかに陸上競技やラグビーなどのできる場所で行われることもあれば、サッカー専用スタジアムで行われることもある。サッカーを見るという点から言えば国立競技場などの場所ではトラックなどがある分選手との距離が遠く、専用スタジアムに比べてリアルさを感じにくい。専用スタジアムの方が選手の声試合の空気などの迫力をより強く感じることができ、リアルなサッカーを感じることができる。故に、この場合具体的に目的の与えられた場所のほうが良く感じる。
このように場所と目的の関係性の緩い場所は自由にできるという点では良いが、その分、1つのことに対する特化性は低く、ある目的がはっきり与えられた場所に劣る。よってもちろん必要な場所ではあるが、そればかりが良いとはいえないと思う。

自分の周りで場所と目的の関係が緩い場所で最初に思いついたのが、自分の部屋である。
1Kはひとりで生活するために与えられた空間であるが、どのように使うかは、住む人によって変わってくる。趣味を充実したければ、自分の好きなものに囲まれてもいいし、ただ寝るだけなら、ベットだけでもいい。そこはいろんな目的を満たすために自由に空間を変えることができる。いろいろな人が使う空間とは、その時々で用途が変わってくるので、固定された空間よりも自由な空間であることはとてもいいことであると思う。
しかし、実際には、場所と目的はある程度一致していくと思う。ドームやスタジアムは周りに観客がいて中心でスポーツや演奏が行われる。美術館なども、絵や彫刻、ものは違えど、観覧するという目的は同じである。1Kのアパートも生活をするという目的は一緒である。
つまり、場所と目的の関係が緩いのは、目的を果たすために自由な空間を造ることができるということではないかと思う。このような場所と目的の関係は使い手としては非常にありがたい関係である。

ある空間を分けてそれぞれに目的を持たせるのが機能的、ということは現在の多くの住宅は機能的であると思います。また場所が単一目的で使用される(できる)場合も場所と目的の関係がはっきりしているので機能的と捉えられます。場所と目的の関係が「緩い」とはこの逆であると考えられます。つまりある場所(空間)が1つの場所として多目的に使用できることと捉えます。すぐに思いつくのは先にも述べられているスタジアム、ドーム、体育館、グラウンド等があります。これらは多くの場合スポーツに使われます。ではなぜ多目的になるのか。それはスポーツが多種でまたそれらは人数や必要な空間の大きさが異なってくることに依ると思います。またスポーツにも流行りがあります。そのような需要の波にも対応できるという面、土地の有効利用という面がメリットだと思いました。

学校:勉強するところ、友達と話すところ、食事をするところ、本を読むところ、教えるところ…
公園:子どもが遊ぶところ、体を動かすところ、犬と遊ぶところ、お弁当を食べるところ、ボーっとするところ…
病院:診察してもらうところ、お見舞いに行くところ、仕事をしに行くところ、勉強しに行くところ…
カフェ:コーヒーを飲むところ、休憩するところ、読書をするところ、友達と話すところ、軽食をとるところ…
さまざまな目的を持って学校にも公園にも行きます。逆に、私たちの身の回りには一つだけの目的しか持たない場所のほうが少ないような気がします。そして、その目的は立場によって変わるものであり、場所と目的の緩い関係性はその場所に出入りする人の種類によるのではないかと考えました。

お風呂やトイレは、入浴や用を足すための単一目的で作られた場所である。しかし、人によってはこれらの場所で本を読んだり、ラジオを聴いたり、考え事をしたり...場所と目的がしっかり結びついた場所を関係の緩いものに変えてしまう。場所と目的の関係性は先に述べられたようにその場所に出入りする人によると考えられる。単一目的の場でも多目的に使ってしまう人にとっては最初から場所と目的の関係性が緩い方が自由に多目的に使えて良いと思う。

身の周りで場所と目的の関係が緩い場所と言われると、原っぱや運動場等を思い浮かべる。そこでは、誰が、どのスペースで、どう使用しようと自由である。
そこで、ある運動場の使用方法について考えてみる。2つの少年のグループがいて、それぞれサッカーと野球がしたいとする。その少年たちは運動場をどう使用するだろうか?話し合って運動場を半分ずつ使用するかもしれないし、どちらかが独占するかもしれない、また、自然に6対4程度の割り合に分かれるという場合もある。このように、場所に使用方法が割り当てられていない場合、その分割は自然に決まってくる。そこでもし、サッカーのグループが運動場を独占して、野球のグループが使用できなくなった場合には、野球のグループはとてもかわいそうである。もし、サッカー場と野球場のように分割されていたら、こういった問題は起こらない。
講義の最後の方で、「自由放任でなく、ある程度の規制や介入があった方が、自由である」という話が出た。僕はそれを聞いて、ふと頭にリベラリズム(現代的自由主義)という言葉が浮かんだ。もしこれを建築に無理矢理こじつけるならば、自己と他者の自由を尊重するというならば、設計者の積極的な介入も必要である、という事になる。運動場の例では、サッカー場として独占してしまえば野球グループの自由は侵害されていることになり、ある程度分割されているなら両者の自由は尊重されていることになる。建築の場合も同じようなことが言えないだろうか。だから建築においても、秩序を守るための目的の割り当ては少なからず必要なのではないかと思う。

重箱の定義が間違っているかもしれないが、極端な話、ほとんどのものが平皿的であると思う。重箱的なものでも時には平皿的なものに変わることがある。
例えとして、高校の教室を挙げる。本来は学生が授業を受けるという役割が割り振られた部屋だが、時には会議や部活動や展示会などと違った目的に使われることがあった。
また、建築の発端でもあり、住むという目的の竪穴式住居は1部屋しかないが衣食住すべての用途に使われていた。
いろいろなものが多様化している現代において目的が緩いほうが都合のいいように感じる。

僕が思いついたのがゲレンデである。冬になれば雪が積もり人々が集まりウィンタースポーツを楽しむ場所となる。だが冬以外の季節は人はいなく逆に自然を楽しむ場所となる。同じ場所であるが季節によって違う楽しみができる場所になるのである。
このように山はいろいろな楽しみ方ができる自由な場所であるといえる。場所というものは目的、楽しみ方によりいろいろ変わってくるものであると思う。

リビングダイニングキッチンを例に挙げる。LDKでは、壁のない空間で食事をしたり、くつろいだり、子供が遊んだり、勉強したり・・・と、いろいろな営みができ、場所と目的の緩い関係が見られる。先日の設計製図の講評会でも、LDKを一緒にした空間がある作品があったし、建築雑誌の住宅を見ても、よく見かける。この目的の自由さゆえに、LDKが取り入れられるのだろう。
しかし、実際にそのLDKは製図で僕たちが設計したとおり、設計者の意図のもと設計されている。つまりは、その場所に設計者の意図が反映されているといえる。僕の設計した住宅に関しては、LDKを生活の中心にするという意図があった。
このように場所と目的の関係は、使用者にとって緩いものであっても設計者にとって緩くないと感じる。設計者が、場所と目的の緩い関係を意図しているのであるから、実際には場所と目的の関係性が考えられている。なんにも意図していない空間を設計者が設計することなんて考えられない。よって、真の緩い関係はありえないと思う。

私が小学生の頃、実家のすぐそばにスポーツ店が出来た。その建物は、すごくこじんまりとした、小さな直方体の建物だった。しかしその建物は、5年くらいで潰れてしまった。そしてすぐあと、その建物は携帯電話ショップになった。しばらくは携帯電話ショップだったが、ここ2、3年のうちに、その建物は、お酒が飲めるダーツのお店になったのである。ある程度(必要最低限)の大きさの建物であれば、“店”目的であれば、十分に使えるものだと思う。
このように、一つの建物を使いまわすことができるのは、重箱であり、平皿であると言えるだろう。しかし、このような建物は、ただの直方体のため、その店に適した外見のデザインにこだわることが出来ないので、そこが欠点であると思う。

場所にはそれぞれの目的がある。その目的を変えることのできる場が平皿型で、ある目的しかない場所を重箱型と呼ぶことができると僕は考えます。
室内で言えば体育館や多目的ホール、屋外で言えばグラウンドや青木淳さんの言う原っぱなどが目的を変えることのできる場所だと思う。体育館ではバスケット、バドミントン、講演会などに、グラウンドでは野球、かけっこ、避難場所などに利用され、それらの利用の仕方はその人、その時によって変えることができる。これらは場所と目的の関係性がゆるい場だと思う。目的が変えられる場所が平皿型であると思う。
身近で考えた時やはり若里公園周辺はかんがえやすい。中にある図書館は勉強の場として高校生の頃は利用しました。これは目的が決まっている重箱型。公園自体はキャッチボール、昼寝、小学生の遠足の場所としても利用しました。これらは目的がその人によって変えられる平皿型。県民文化会館はコンサートや講演会や、卒業式などに使えるがそれなりに制限のある中間の場所であると思います。
静かに勉強したいので目的が決められていないと困るし、自由に遊びたいので決められた用具があると困る。なので、場所と目的が緩いほうがいいかどうかはその用途しだいで、是非は無いのだと思います。どちらもかかせない型だと思います。

中学の時私は剣道部に所属していましたが、私の中学の格技場は他校の道場より狭く、剣道部と柔道部が2ヶ月おきに順番に使用していました。柔道部が使用している間、私たち剣道部は近くの公共の武道館に使用許可を得て部活動をしていました。格技場は言わば、重箱的かつ平皿的であるのではないかと思います。
この格技場の使用の交代の時期は、掃除や畳の敷き換えなど色々と手間がかかっていて、当時の記憶ではとても面倒くさかったような気がします。
重箱と平皿の曖昧な関係について、今回例に挙げた格技場の事例では完全に不必要な要素であると思います。しかしこの曖昧さがとても重宝される空間もあるだろうし、重箱と平皿の境界の曖昧さは、時と場所によってその価値は変わると思います。

場所と目的がほぼ一致しているのは、野球場やサッカー場など多くの人が集まる大きな建物に多い気がする。それらはスポーツ観戦という目的に利用されることが多い。つまり重箱建築。住宅を考えてみると、人が生活するための建物ということで目的と場所は一致しているといえる。しかし、家での生活という行為は人によって意味が違うと思う。家で食事をしない人や睡眠をとらない人、逆に、帰ってきて睡眠だけとる人など。このように、住む人によって利用目的が違う。つまり、住宅は重箱建築ともいえるし、平皿建築ともいえるだろう。

机(テーブル)は、学校にだって家だってレストランにだって必ずある。でもその用途はばらばらで、勉強したり、物を置いたり、模型作ったり、ご飯食べたり、寝たり様々なことができる。同時にそれは、レストランのテーブルだからといって、ただ食べることだけに使うわけではないという、場所と目的の緩い関係も意味する。絶えずパソコンなどが置いてあるようなそれ専用の机を除けば、机の利用目的というのは単一ではなく、自分の好き勝手に利用することができる。その場所と目的に緩い関係を持たせるかは自分次第だが、そうしたことによって生まれる数々の機能に僕は魅力を感じる。

たいてい学校には目的をもった部屋が並んでいて、かなり重箱的な建築であると思う。しかし自分の通っていた中学校の校舎にはそうではない場所があった。
それは教室棟の各階の廊下の真ん中辺り。そこだけ通路の幅が約3倍になっていて、小さな広場のようになっていた。窓際に腰掛がある以外は廊下が広がっただけの空間である。
ただそれだけのこと。
それだけでそこは単なる廊下ではなくなったのだ。学年集会や歌の練習の場となったり、休み時間の遊び場や友達としゃべる場であったり。
様々な表情を持つこの空間は、なんだか心地よかった。先ほども言ったが、ただ廊下の幅が広がっただけの空間なのに。目的の詰まった空間の中にあるこの緩みはとても魅力的にうつった。

目的を持つことで快適になることももちろんある。しかし人には息抜きが必要で、そんな空間を建築が生み出せたなら、それは人にあった建築の姿なのだと思う。

今、僕の住んでいるアパートの一室が空いている。今まで住んでいた人が出て行ったからである。今は、中には何もなく、がらんとしている。
アパートなどの賃貸物件は人が出たり入ったりを繰り返す。その部屋の中はそれが繰り返される度に変わる。人それぞれの趣味や仕事、その人の個性などによるからだろう。
しかも、部屋が一つだけの場合は、その一つの中で、食・眠・勉・遊などといったことを行う。何を行う部屋かということが決まっていない。

大空間はそこを使う人によりその場所を自分の好きなように使えるが、小空間はある程度制限されてしまう。少しの規制があるほうが自由を感じるので、小空間から大空間に移るときは自由を感じるのでは。

僕はコンサートスタッフのバイトをしているのでそれについて考えてみます。コンサート会場を準備するにあたって大道具や楽器位置などを事細かにならべていく。また照明などは長い時間をかけて正確に位置を合わせたりする。これはそのコンサートの主役の身長によって異なる。コンサートが行われる前にこの準備をするのだが完成したものは重箱的になっておりあるものがそれぞれ決まった位置決まった角度になっている。またお客さんたちも決まった座席位置に座ることが決まっている。
コンサートが終わると搬出作業に移る。物をトラックに詰め込むのだが詰め込む順番や入れる位置などが決まっており、間違えると全部入らないこともある。これも重箱的であると思う。
すべてかたずけたあとはそこには平皿的な物がある。座席は決められた場所に座る必要もないしコンサート目的以外の人が訪れることもあるだろう。

使用目的の制限された重箱も使う人により平皿にもなるのだと思います。平皿として思いつくものは多くありますが、重箱として考えるとどれが当てはまるものなのかと考えてしまいます。お題での遊園地が重箱と聞いて、思い出した話がありました。自分の友人がディズニーランドやシーに行っても決められた遊び場としてのアトラクションには一つも乗らずに、散歩したり写真を撮ったりパレードを見たり買い物をしたりしているというのです。これを聞いて、決められた空間の中でそれをせず他の事を愉しむという発想をとても面白く感じました。多くの重箱は発想転換によって平皿にもなりうるものだと考えます。どんな場所にも目的との関係性に緩さが生じていると思うので、是非を論じるには難しいと感じました。

重箱→操作性 
平皿→非操作性
 
 私なりに重箱と平皿を定義づけてみた。
 たとえば・・・学校の教室に入ると私たちは瞬間で自分が今いる場所が“教室”であるということを理解できるであろう。それは小学校でも高校でも大学でも一様にある決められた空間を教室と判断する。それはなぜか?同じ机が同じ方向を向き、その机が整然と並べられている先には緑色の黒板がある。これらの部屋の中の家具の配置や形から私たちは瞬時に教室と判断するのである。これは机やいす、黒板などが教室というものを作り上げていて、これこそが操作性によるもの(重箱的)であると私は考える。もしも教室の中に机や黒板がなかったら?当然ながら私たちはそこを教室と理解することが困難になるであろう。“教室”というものを作り上げているものは机といすと黒板であってそれらが重箱なるもので部屋としての空間は何も操作がないいわば平皿なるものであると私は考えた。

建物を建てるという計画がされるとき、目的は必ずあると思う。
例えば、病院は絶えず「病院」を利用する人がいる。それは時間、季節に関わらない。入院であったり、検診であったり、予防注射であったりとその利用内容は様々だが、すべて病院の持つ役割の範囲内である。
しかし会館やスタジアムは、常に一つの目的で使用されるとすれば、その頻度はかなり少なくなってしまう。建築にとって、利用されないほど、むなしいものはないと思う。それを阻止するために、多目的にし、利用頻度を多くするという意味では、平皿建築があってもいいと思う。

私たちの身の回りの平皿的な目的を割り当てられていない場所と重箱的な目的を割り当てられた場所を探してみた。すると、目的を割り当てられていない場所はすぐにたくさんひらめいたが割り当てられた場所はなかなか見つけられなかった。つまり探そうと思っても私たちの身の回りには目的を一つに割り当てられた場所のほうが少ないのです。住宅は基本的に割り当てられていない場所といえます。私のアパートには友達が2人住んでいますが、私も含めて3人とも全然違う部屋のようです。収納の位置やキッチンの位置などは同じでも利用する人によって全然違うものとなります。私には重箱的な建物など立てることは不可能なのではないかと思えました。

ボーリング場はボーリングをする場所、映画館は映画を観る場所、スーパーマーケットは食料を買う場所とこれらの場所は目的がはっきりとしたものです。しかしこれらの場所が集まった大型の複合施設になるとそれぞれの目的とその場所の関係はとたんに緩いものになると思います。
いろいろな目的が、あるひとつの場所に重なったときそれぞれの目的と場所の関係性は緩くなり、最近はこのような場所が増えているように思います。

喫煙スペースはタバコを吸う人だけを対象とした目的ある重箱的な空間である。しかし、タバコを吸う人が今では非難されるようになり、そうすればそのようなスペースも排除されていく。
ここで、僕が言いたいのは喫煙スペースというのはただこじんまりとした空間に灰皿がおいてあるだけだ。そこにタバコを吸う人がいなければただの平皿的な空間に思う。しかし、そこに喫煙者が入ればそこは目的を持った空間、すなわち重箱的な空間になると思う。
このように、そこを目的としているかいないかは人それぞれであり、その空間が平皿になるか重箱になるかも場合によって違ってくるように思う。

平皿の大皿料理では、おせちなどの重箱料理のようにルールがない。
一見するとおせちなどの重箱料理は、ルールがあることで、堅苦しく、盛りつけが面倒なイメージがあります。実際面倒なのだろうけど、ルールがあるということは、そのルール通りにやれば間違いないということなので、慣れてしまえば意外と簡単な作業です。しかし平皿の大皿の盛りつけでは、おいしそうに見せなければいけない、最低でも食欲がなくならないようにしないといけない...など、いろいろなことに気を配りながら行わなければならないので、これはかなり面倒な作業であり、ルールがないだけに、盛りつけのセンスというものが必要になってきます。
これはどんな場合でも同じで、平皿的な物、建物、原っぱなどを使いこなすには、それ相応のセンスが必要であり、ルールに乗っ取ってやっていれば間違いないであろう重箱的な物の方が、楽をしたいという人間にとっては合っていると思います。

平皿と重箱について考えてみると、どうしても分類できなくてもともと全ては平皿の上になっていると思った。

平皿→平皿(目的付加)=重箱

となり、平皿があってその中に重箱が定義されている。と考えました。

青木淳さんの言う平皿=原っぱ。重箱=遊園地。強引に言ってしまえば、遊園地は原っぱの上に建てられたものである。建物がある場合でも、まず意味のない空っぽの建物がある。この内部に一手間加えるだけでそこに意味の持たされた空間が広がる。部屋に多くの席を置き舞台をつけたら、そこはコンサートホールになる。そして、そこにスクリーンでもつけたなら人はそこを映画館のように認識するかもしれない。僕の地元は田舎なので野外にスクリーンを置き野外での映画を上映した。それも平皿の上に目的化されたモノを置く事で重箱に変化させた例と言えるだろう。
なので平皿と重箱には分類することができないという関係性があるのではないかと考えました。

原っぱは本当に自由なのでしょうか?一面芝生で限りなく広がっていくようなところで人は自由だと感じるとおもう。
でもそこで遊ぼうとなるとどうだろうか?持て余してしまうのではないかなと思う。その場を使う年齢層や目的が次第に決まってきてしまうと思う。
平皿は結局「自由な空間」という目的を当てられ、重箱の中に知らず知らずに組み込まれていると思う。
質問意図を介せずに返答してしまって申し訳ないです。ちょっと無理してみました。以上。

僕にも平皿的空間を意識して作ったことがある。住宅の設計のときである。ここで僕はフリースペースという部屋を作った。住人が自由に空間を使えるようにと設計したのである。もちろんその空間は自由だという考えの下で作ったが、実際は自由ではなかった。
それは、大きさが平皿的を重箱的に変えてしまうからである。どんな自由な空間を設計しつつも、そこには大きさというある種の力がありそこには操作性(筋野君の言葉を借りれば)があると思う。
例えば、大きなホールで自由だといわれても、誰もそこで本を読もうとは思わないし、いくら平皿的だからといってその部屋のなかでスポーツはできない。結局、やることは決まってくる。
このように、大きさなどは設計者によって決められたわけであるから、そこは少なからず設計者の意図によって動かされていることになる。
平皿的空間は自由だと言いつつも、大きさに操作され、できることとできないことがある。本当の意味では自由ではないと思う。そこの矛盾が平皿的空間を不便で不自由なものしてしまうのではないかと思う。

平皿と重箱について色々考えてみたが、ピンと来る答えが思い浮かばなかった。
ただ、一つだけ思ったのが、重箱も仕切りを取ってしまえば平皿と変わらないのではないかと思った。そのしきりを部屋の壁に置き換えてみれば、住宅メーカーなどの類の建築は基本的に平皿になるのではないかと思った。
つまり何が言いたいかというと、建築は平皿を重箱化していく作業なのではないかと思った。もちろんいきなり重箱を作る作業がないわけではないが。
平皿を重箱に直す場合、それが自由かといえば、スペースや導線、機能を考えると制限されてしまう以上、完全に自由とはいえないだろう。
つまり、平皿→重箱、という作業を経てからその限られた重箱の中で自由(インテリア等)を楽しむのが建築なのではないかということだ。

効率的な空間構成を目指すことが重箱的な建物を作る要素のひとつだと思う。
寝殿造りは儀式を行うことを前提として造られていて、生活の空間は奥に追いやられていた。そして、空間の配置もその用途によってこと細かく決まっていた。これは儀式を効率的に行うためという理由があったと思う。形式化された空間のほうが無駄が無く、合理的である。まさに儀式と生活の分かれた重箱建築である。
一方で、平皿建築とは非効率的な空間だと思う。講義で紹介された坂本一成さんの段々畑は一目見て掃除が大変そうだなと感じた。また、普通に移動するのも大変そうだ。青木淳さんの遊び場の例も、遊園地はその場所に行けば何も考えなくても遊ぶことが可能だが、原っぱは利用者が遊びの計画から始めなければいけない。でもこれらは効率的に作られていない分、その空間にいる人に余裕を感じさせてくれると思う。この余裕の持てる空間が非効率的であり、だからこそ自由を感じさせるのではないだろうか。
現代は時間に縛られていて、効率的に生活することを要求されていると思う。だけど、そればかりでは疲れるし、心にゆとりがもてなくなってしまう。これは避けたいと思う。

重箱と平皿、探してみた結果、一番話しやすいと思ったのは、規模は狭いのですが実家の各々の部屋だと思いました。
私は3人兄弟でそれぞれに部屋があり、そこは誰の部屋というのが決まっているのですが(重箱)リビングやダイニングはみんなが共有している場所(平皿)です。
しかしそのリビングにもそれぞれお気に入りの場所があって、そこにいるときはそのひとにとって重箱になると思うんです。
例えば同じ空間でも私はソファでメールをしているときはそこは私だけの空間だし、弟がゲームをしているとき、そこは弟の空間であるように。
平皿だったものが重箱になるときもあると思います。

目的性の緩い建築というと思い浮かべたのは、文化会館などの地域のホールのような建築でした。実家の近くにある文化会館はとても多くの目的を持っています。そこでは定期演奏会やコンサートが催されたり、個展や美術展が開催されたり、レストランやプラネタリウムが入っていたので、毎日多くのひとが利用していました。
ここで思ったのは、この文化会館は重箱建築なのか平皿建築なのかということ。中にある個々の役割から判断すると重箱建築であるけれど、文化会館という名目から考えると特に何をすると決められているわけではないので平皿建築である。つまり重箱であるか平皿であるかは建物が決めるのではなく、そこをどういう気持ちでどのように使うかで決まってくるものだと感じました。

ほとんどの場所は個人のための場所ではない。ゆえに自由自由と言いつつも何かしら制限があり、それに沿った目的でないとその空間を有効に使えない。
例えば、教室。黒板に向かって座るようになっていて勉強するのには有効、机は硬いし変な体勢になるし寝るには不都合。
みんなが使うところならそれだけ自由が減っていく。
だから目的のゆるい自由な場所、個人の目的で使える場所、自分のための空間が必要。つまり、自分の部屋。ここはいつでも使えて一番多くのことができる場所。
この緩さは生きていくうえで不可欠なもの。

家の近くの運動公園にはテニスコートや野球場、陸上のサブトラックなどがある。野球場やテニスコートは目的が決められている。サブトラックでは、走っている人、サッカーやキャッチボールをしている人などがいる。
目的が決められている場所ではそれを目的とする人にとっては目的に専念できる最高の場である。目的と関係が緩い場所では使用目的が多様にあり自由でそのときの気分によってもいろんなことができる。どちらも欠かせないものだと思う。

長谷川さんと似たような意見になってしないますが、平皿的な空間を考えてみたとき、思いついたのは、実家のリビングです。
わたしの実家のリビングにはいつも誰かいます。みんなそれぞれ、部屋を持っているのに、集まってくるのです。しかし、みんなが集まる理由は同じではありません。お父さんはテレビを見るため、妹はおやつを食べるため、お母さんは家事をするため…。
さまざまな目的を持った人が活動できる。そういった点で、リビングは平皿的である。
それぞれの目的には少しも共通点がない。しかし、お互いに邪魔することなく、なりたっているし、居心地が良い。また、家族が自然に話しをする場になっている。家庭において、平皿的部屋の存在は正解だったのではないかともう。

製図で住宅の設計をした。住宅を造る上でなくてはならないものがある。それは食べるスペース、くつろぐスペース、個人的な作業のスペース、風呂、トイレなどで、つまりリビング、ダイニング、キッチン、自分の部屋である。なぜ言い直したかと言うとLDKにすることで人は空間そのものを固有化している。つまり重箱に近づけているのである。(僕の場合はさらにLとDKの空間自体も分けて固有化した。別に分ける必要もないし、分ける必要がないと言われた。言われてみれば最もだと思った。)逆に言えば分けた方(重箱の方)が使いやすいしわかりやすいから分けているのかもしれない。僕もそのように分かれているような空間しか利用したことがないのでそれが普通だと思っている。しかし、このような常識を排除したときに新しい何かができるものだと思う。そういう意味でミースのファンズワース邸や西沢さんのウィークエンドハウスはそれらを排除したもので新しいと思う。またこの緩い感じが絶妙だと思う。しかし、正直使い勝手となると少し疑問が生じる気がする。

重箱建築と平皿建築の違いを自分の中でまだうまく整理する事が出来ません。
青木淳さんの遊園地と原っぱについて考えると、遊園地と原っぱの両方に「遊ぶ」という目的が確かにある。目的があるから重箱建築と考えてしまうとどちらも重箱建築になってしまう。しかし、遊園地にはいくつも乗り物があってそれぞれで「遊ぶ」ということに、割り当てられた目的がある。一方で、原っぱには「遊ぶ」という目的以外何もない。ココでいう重箱建築とは割り当てられた小さな目的がいくつも混在する建築で、平皿建築とは大きな目的が全てである建築だと思う。

重箱的なもの オリンピックが開催された際に都市開発された長野市をそう考えます。ゾーニングによって場所に目的を与える(小ぎれいな道路、ビッグハットなどのオリンピック施設)=場所の重箱化。オリンピックが終えると、有効活用のためその場所の平皿化を図るわけですが、私から見るとうまくいっていない気がする。たまに平皿になりきれず重箱のまま中途半端に放置された場所を見て、重箱、平皿と、場所の有効活用とは直接には結びつかないことに気づきました。

人の集まるところ、公共的なところは平皿的。
個人のスペース、これは重箱的。
本当にそうなのだろうか?
自分の部屋は一つの目的のために作られたのではないし、公共的なところ、例えば公園を例に挙げると、ある一区間にベンチがあれば、それは座るために作られた場所。それ以外は何でもない。とにかく、座るために作られたのである。砂場は、砂遊びをする為に作られた。こう考えるととても重箱的だ。
重箱か平皿か、それは、対象となるものをどのレベルでみるかによって、変わると思う。

何人かの人が言っているように、私も場所と目的の緩い関係であるのは自分が住んでいる部屋であると思います。
去年、一年間寮生活をしました。寮生活は相部屋だったというのもありプライバシーとかあまりなかったけれど、それぞれの生活の仕方や部屋の使い方というのが人それぞれ違うということがすごくよく分かりました。
私は2人部屋だったので、2段ベッドと2台の机、そして本棚のあるすごく狭い空間で、どの部屋も同じようなものだったので部屋に荷物を入れるまではすごく重箱的な空間だったと思います。だけど1年後の退寮する時期には、入寮した時と一転し、それぞれの個人個人異なった部屋になっていたのでこれは平皿的な空間に変わったのかなと思いました。

このお題について考える上で重箱的なものはあまり思い浮かばず、出てくるものは平皿のものがほとんどだった。それは自分の中でのその空間に対する定義が曖昧だからかもしれない。
でも平皿的な物でもある程度その場での行動に目的が与えられていると思う。その度合いに関しては様々である。
1つの住宅で考えてみるとする。リビングやダイニングといった部屋があるが、キッチンは調理のためだけに設けられた空間である。これは重箱的なもの。洗面所となると顔を洗う、髪を乾かすなど目的が絞られて与えられていると思う。ところがフリースペースと言う空間だと完全に目的が与えられておらず平皿そのものとなる。
ちょっとした変化を与えることで重箱から平皿、平皿から重箱にもなりえる。このように両者の境界は明確ではなく関連性が強いと感じた。

公共建築は機能がはっきりとした重箱建築といえる。図書館、公民館、コンサートホールなど。
昔、ダムタイプの舞台を新国立劇場の確か小ホールで見たことがある。小ホールは新しいタイプの観劇に対応すべくステージや客席が移動できるタイプの劇場(ステージをコの字に囲んだりロの字に囲んだりできる)だったと思うが、ダムタイプは映像と実写とが混在する舞台で、そのスタイルに合っているかというと疑問である。劇場と演出者の思惑に違いがあるのだろう。
使い手側からすると作り手側が思う機能や規則は思っているよりも自由であったりするような気がする。住宅でいうLDKとかいうものはLもDもKもまったく人それぞれである。機能を規定しているようで規定しようがないものである。コンサートにおいても最近は寺院でジャズや歌手のコンサートが行われている。寺院は建築的には重箱建築といえる。もちろん宗教的な機能を果たす。しかし違った利用をされている。使い手は作り手の予想を裏切る。そこが面白いと人々は思うのではないか。
最近行われた、小布施図書館のコンペの公開プレゼンテーションを見に行ったが、そこでは図書館以外の機能が主催者側からも求められ、提案者もそれに答える形となった。それ以外の機能=「どうにでもなるスペース」が重要視されたように思う。
緩い関係性は作り手の重箱、平皿という機能を規定してきたものと使い手のたくましさの均衡のように思える。

僕の通っていた中学校の各階の教室の前には、多目的ホールというスペースがあった。学年集会をやったりパーテーションで区切って委員会をしたり、雨の日は様々な部が筋トレをしたり、ときには鬼ごっこをして怒られたり...その名の通りいろいろなことに使えてとても便利な場所だった。
しかし、広さは教室の1.5~2倍くらいで、学年やく120人での集会には少し狭く、区切って使う(たしか3か4部屋だった)委員会の場合は十数人には少し広いかなぁと感じた。
つまり、平皿的な空間は多くのことに使えるという反面、必ずしも目的に適した広さではないという欠点もあるのだということだ。重箱的空間はちゃんと目的を考えて設計されているが、平皿的空間は様々な目的を考えて対応できる幅を広く設計する。
ここまで書いて今さら気づいたが、平皿は重箱にもできるのだと思った。

お店で考えると、重箱が専門店で、平皿がディスカウントショップではないかと思う。
専門店に来るお客はある特定のモノを目的として買物をする。一方、一概には言えないがディスカウントショップに来るお客は様々なモノを買いに来る。
ここで見つけた関係性は、重箱は平皿に含まれることがある、ということである。とはいっても、平皿には表現しきれないことを重箱を磨くことで表現できるということも分かった。

自分が先日設計した住宅の話になってしまいます。私事ですみません。
私が設計した住宅は、大きなウッドデッキが敷地の中央にあり、それを取り囲むようにして各部屋が配置されていて、中央のウッドデッキが部屋の中にまで侵入し、さらにはその大きな大きな木の板に丸いアナボコがソト、ウチ関係なくボコボコと空いている、そんな建物です。これがただ単に、ウッドデッキにも部屋の中にもアナが空けられていないただの板だった場合、ただ大きな空間が存在する事となります。その場所では人々は、寝ることも出来れば、走り回ることもできるし、ご飯を食べることも、勉強することも、なんだって出来ます。これが重箱的空間です。それに対して、この大きな板の上にソファを置いてしまえばそこは、くつろぐところに、ベッドを置いてしまえば、そこは寝る場所に変わり、それぞれの用途が決まった空間になってしまいます。これが、平皿的空間です。
では、私が計画したように、板にアナをボコボコと空けてみると。あるアナは、椅子"の、ようにも使える"し、通路"の、ようにも使えるし、またあるアナは、ベッド"の、ようにも使えるし、机"の、ようにも使えるし"…といったようになります。これは、重箱に少しの操作を加えた、平皿的な重箱空間、もしくは重箱的な平皿空間だと言えると思います。
私は、この様に、ただの伽藍堂の重箱と、きっちりと用途が決められてしまっている平皿の間である、「目的があるようでない、ないようである」曖昧な平皿的な重箱、重箱的な平皿に魅力を感じます。

重箱と平皿を逆で書いてしまいました。すみません。

この前、テレビである住宅のインテリア設計作品を見たら、すごく気に入れます。寝室なんですけど、とても広くて、洗面所もあってて、トイレもあります。各スペースの間にガラスなどで格段を作って、見えるようにも見えないようにされていて、寝ることはもちろん、親友向けの応接室としても使えます。見る瞬間は、ファッションだなと思いました。
今の時代では、電気製品もいろんな機能がついているものが人気です。建築もそうだと思います。ここは寝室、ここはリビングと決まってしまうと、つまらないと思います。空間もより狭く見えると感じます。

重箱建築と平皿建築

Back in junior school, the main entrance of the school was no more than 5 meters away from the road, and it was hectic in the evening when more than 1500 kids were rushing out to go home at the same time as parents coming to receive their kids.
Several years after I graduated from the school, the school pulled back the distance between the barriers and the roads surrounding the school and created a small open area in front of the sub gates as well as the main entrance.
Originally, the school was designed like a (重箱) which had set parameters among the freedom of entering and exiting the school during the rush hour.
However, after redesigning it, it provides an adequate (平皿) space for a better social integration to happen. The resulting traffic chaos around the school had certainly reduced significantly and the open area allowed kids to interact with each other more closely when they are gathered over there.
The result of this change in building design is how spatial framework are influenced by users and the connection between重箱建築and 平皿建築 is vise versa. Depending on how architect wants the space to be restrained or opened, the needs upon the users are the one who determines which type of 建築 it is to be.

住宅の課題お疲れ様でした。では早速お題について、

原っぱのような場所を高架下とします。

重箱的なもの、平皿的なものは設計者側からの視点と、使用者からの視点で異なると考えました。

■設計者側からの視点。
 □重箱・・・目的の違う使用者を排除する場所。
ある特定の人をうけいれる場所をつくるのではなく、目的が違う人をしつらえなどを利用し排除する場所が重箱と考えます。例としては喫煙所に灰皿をおくことにより非喫煙者が排除されることや、駅のプラットホームに入るのに改札を設置することにより電車にのらない人を排除することなどがそうです。

 □平皿・・・できてしまった場所
平皿として、設計者は多様な目的を果たすことができるための空間をデザインします。コメントにある例で言うと体育館や、ホールなどがそうです。ですから、もうすでに場所と目的としつらえのデザインをし、関係をつくっています。もはやこの時点で重箱的要素が入ってしまっています。この関数関係が全く無いものが平皿とするならば、デザインをしない場所、つまり「できてしまった場所」の事だと考えました。

と定義します。

■使用者側からの視点。
 □重箱・・・○○しに行く場所。
 □平皿・・・目的を選ぶことができる場所。

と定義します。

この両方の平皿的性格を帯びているのが高架下です。設計者としてもできてしまった場所であり、使用者からも目的を選ぶ(例でいうと、ギターをひく人もいれば、店を構える人もいる、ただ雨よけに歩く人もいる)ことができる場所です。

このように、できてしまった場所が様々な人に多様な目的で利用されるなら良いことだと思う。しかし、できてしまった場所は、使われないことが多い。それは避けなければならないと考えました。

はじめまして。3年の竹森と申します。去年、この講義を受けさせていただいたのですが、自分なりに納得のいくところまで考えがおよばなかったということもあり、今回、興味があったテーマということで、まことに勝手ながらコメントという形で参加させていただきます。よろしくお願いします。
 今回のテーマである「重箱」と「平皿」についてはまず、その線引きの難しさに非常に悩まされました。その結果、その難解さの原因が対象となる建築を見る立場によって変化することにあるのではないかという考えにいたったので、その経緯をコメントとして載せさせていただきます。
 例としてあげるのは、設計製図の授業でも課題となっている、「コンヴァージョン」や「民家再生」で扱う、再生対象である民家等の建築物です。これらはたいてい、重箱として作られその使用者の目的が時代のニーズに合わなくなったことで再生の必要性が生じたものです。ところが、その建築物を当初の目的とは違った何かに変えようと模索する設計者の視点ではこれは平皿として捉えられているのではないでしょうか。既存の設計にとらわれない発想を持つこと、これはこの建築物の是非という問題にも関わっており、現存の状態ではこの存在が危ぶまれることから、それがそこにあることが必ずしも良いものとは言えないのですが、現存のものから、何らかの魅力を引き出し、新たな魅力へと補足する一連の操作に必要な発想にはやはり新たなものを自由に生み出せる平皿的な建築の捕らえ方を必要としているように思います。

ちょっと気になる発言へのコメント。
「重箱は平皿の上に何かを載せたものである」、あるいは、「平皿は重箱の仕切りを取ったものである」という言い方は、ちょっと違う。もちろん二つの構成はそう記述はできるのだが、創造する側のスタンスとしてどちらに価値を置くかということがここでのポイントである。古後さんの指摘はそのとおり。僕も埼玉の劇場でダムタイプを見たけれどどうも劇場にダムタイプは合わない。もっとフレキシブルな劇場を作れないものかと思うけれど、限界かな?内堀さんの狙いは正しいし面白いと思う。香川君の言うように平皿は究極的に意図的にはできないという捉え方も可能か?しかしそうすると建築家は平皿を作れないことになる。

遅れてすみません。
僕の小学校に多目的教室という教室がありました。その教室は、低学年の時は、地域の老人と触れ合う空間として使われていて、高学年では、各学年ごとに発表の場として使われてきました。
ここまで聞いた感じだと重箱的だと思いますが、実際、この教室は、ほとんど使われていなくて常に教室が開いていて、子供が勝手に使うことが多かったです。しかも中学年の時は使うこともなく何の教室かよくわかりませんでした。このように平皿的な教室でもありました。このように場と目的とが緩やかな場所もたくさんあったなと思いました。

 遅れてしまってすいません。
 小さい頃私の近くには、粗大ゴミ捨て場みたいな場所がありました。大人たちにとってはただのゴミ捨て場でも、近所の子供たちにとってはわくわくする秘密基地でした。そして、のら猫にとっては、重要な家でした。
 使用する目的が決められてる重箱的な場所だとしても、その場所を利用する色々な人の立場に立って」見てみたら、重箱は平皿になるような気がします。 
 重箱と平皿のはっきりとした境界はないような気がします。

 遅れてすいません。
 公園には様々な遊具があり、それぞれに基本の遊び方みたいなものがあります。しかし、私が小さい頃は、滑り台を逆さに登ったり、ブランコの周りの柵の上をあるいたり、うんていの上を歩いてみたりしていました。このような遊び方は、はたして、遊具を考え出した人は予想していたのだろうかと思います。
 重箱的な場所になるはずだった場所が、平皿的な場所に変わってしまったということになります。その場所を使う人によって重箱にも平皿にもなると思います。

遅れてすいません。アップされているのに気づきませんでした。

 自分の周りには、平皿のものが大体を占めているような気がします。
 ナゴヤドームや東京ドームは本来球場であるが、ときにフリマになったり、コンサート会場になったりします。ビックハットも時にオリンピック会場やコンサート会場、イベントの開催場所だったりします。ただ、球場やサッカースタジアムは野球のため、サッカーのために創られたのだから、それが行われるのがもっとも良いのです。音の響きとかだったら、断然専用のホールが良いでしょう。ただ、いろんな事情からそういう状況になってしまうのでしょう。ただそれは、本人の感じ方によるものなどで、ここで異なりが生まれてくる思います。

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信州大学工学部社会開発工学科 坂牛研究室 | Lecture : 建築の規則(2007年冬): 第6講お題

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