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第七講お題

本日は古来建築の主題である全体と部分についてお話した。そして部分と全体の比例を基礎に作られた建築を人間建築と呼び、そうした関係性を捨象し部分の増殖に基づく建築を妖怪建築と規定しその流れを概観した。さて人間はものを構築する上であるいは思考をくみ上げていく上で全体性を無視することは不可能である。設計図に代表される全体性の見取り図は作らざるを得ない。一方でそうした全体性が必然的に導く抽象は様々な思考や造形の断片を喪失させる。そこで君たちの今回の製図あるいは自分で設計した何かを思い出してもらいたい。その設計において、君たちは全体と部分についてどう対処していたか。事前にそうした意識があったかどうかは問わない。事後的に見てどうだったか。そうした観点から自らの設計を評していただきたい。今回は文章を4段落で書き起承転結を明確にして書いて欲しい。

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今まで設計した二つにおいて、事後的に見ても妖怪ではない。当時も、全体のバランスを考えて設計していたつもりでした。これを起承転結で面白く書く力は僕にないので…音楽で例えてみます。

おもむろにギターを弾いていると、とりあえずメロディーが浮かんでくる。何度も弾いて、そのお気に入りの一部分を基準に表現したいことを考える。お気に入りは大抵AメロBメロサビのどれかになる。ここで全体が出てくる。経験と理性に従った人間だと思う。

ゆっくり進めていく。何を表現したいか考えながらやる。そのために歌詞も書く。時にはため息もつく。やっと完成して、達成感に浸る。だけど今はまだ、僕が作りたいと強く思っているタイプのものは出来ていない。

それは、リフレイン(繰り返し)がある曲。作曲者自身の絶対的感覚を用いて初めて存在する1フレーズ。この感覚こそ作曲における妖怪だと思う。それは狂気であったり、優しさであったり、毎日であったりすると思う。曲全体は必然的に人間になってしまうと思うが、その中に妖怪がいる。

才能のあるなしはあれど、誰もが妖怪を自身の中に持っていて、そいつの理性で閉じ込めているんじゃないかな。強い意志と勇気で爆発させた感覚がきっと妖怪なんだと思う。これから音楽をやっていく中でその妖怪と出会えたなら、そのときはきっと泣いてしまうでしょう。

今回はコンセプトや最初に考えたカタチにとらわれすぎていたと思う。事後的に見ると外観に統一性を持たせようとして、全体に重きをおきすぎたために部分が軽薄になってしまったと言える。

そのため、外観はおもしろさのないものになった。全体にばかりとらわれ、カタチが固定されてしまっていたので、自分がこだわっていた部分をうまく表現できなかったと思う。

ここで、部分と全体の関連性を考える。部分だけを考え、部分をくっつけるだけの建築・全体を考えるだけで部分のない建築、前者は奇抜、後者は無難な建築となるように感じる。   

この2つではすごい建築ができないとは言わないが、僕は敷地における歴史や周辺環境、その時代のニーズ、そして建築家によって全体・部分の比率が決められると思う。全体・部分が黄金比のようにきれいに重なり合ったとき、歴史に残るような建築ができるのではないか。


僕が設計した二つの作品の特徴として共通して言えることは、平面がいびつなかたちをしているということだと思う。つまり部分から構成していく妖怪建築であると思う。

何故そうなったのか。それは僕が意識的にやりたいことを中心に部分部分のつながり、配置、ひとつひとつに意味を持たせられるように考えながらゾーニングしていった結果だと思う。スタジオでは1つの木を中心とした配置、住宅では階段を中心とした配置、そういった意味で自分の建築は箱ではなく袋建築だと思っている。

しかし事後的に見てみたり、人に評価してもらうと、もっとキレイにまとめられた部分、意味もなくいびつになっている部分などの発見がある。そこで自分の知識のなさ、つめのあまさなどを感じる。また周りの良いものに影響を受け、軸がぶれてしまうようなこともあった。こういったマイナスな部分の発見を事前に解消して良いものにしていくのが課題だと思う。

部分、部分があってそのつながりが考えられて結果的に全体ができあがるといった妖怪建築が今の自分の建築であると思う。この考え方をこれからもっと磨いていきたいと思っている。そこで人間建築の考えが上手く調和されて、妖怪人間、「べム建築」といえるようなものができたらいいと思う。そのために原広司のような妖怪建築の巨匠の考え方などをもっと勉強して自分なりの建築スタイルがつくれるようにしたいと思う。

住宅の設計を行ったときのことを事後的に見る。
まずはじめに全体のイメージを考えた。光がよく当たるように建物を斜めにしたり窓を大きくしたりとにかく光を取り入れる方法だけを考えていた。全体の形もデザインがよくなるようにこの段階である程度は考えていた。
次に内部的なものを考える。リビング、キッチン、トイレ、浴室、寝室などをどこに配置すればよくなるかを試行錯誤していく。この作業は何度も繰り返しこれ以上良い配置はないと思うくらい考え実際に配置が決定する。
しかし完成してからこれを見てみると実際はもっと良い配置があったのではないかとか、良い配置があることにきずく。おそらくこれはいくら考えても出てくる問題であると思う。ゾーニングという作業は建物を設計する比較的早い段階で考え、しかもかなりの時間を費やすのだが、しっくりくるものはなかなかでない。でたとしても後になって別のいい配置があったのではと考える。ゾーニングは無限回繰り返しても正しい答えがあるというわけではない。それゆえ終わりの見えない作業をどこで見切りをつけるかが重要であろう。この見切りの経験が少ないと後になって後悔することが多くなると思う。
終わりがないのをどうやって終わらすかを理解することが大切だと思った。

 僕が2年になり設計したものをみて、例えば天井の高さで言えば高すぎる箇所もなくまた低すぎるところもない。人間建築であると感じた。

逆にこれはおもしろくないということではないかと思う。僕はとりあえずイメージをして配置を考えそれに個々の部屋に見合った広さなどを考え設計してきた。
いま思えば枠にとらわれ過ぎていてきがします。

しかし、これはおわってから自分の作品を見て思うことであり、まだまだ反省する点がたくさんうかんでくる。プラス思考に考えるとまだまだ学ぶ要素がたくさんあるということだ。

オフィスでは、人が使いやすいものであり、またおもしろみがあるような妖怪人間建築なようなものができたらいいなぁと思う。

自分は前期での製図のスタジオXで考えました。
まず設計にあたり美術館のような美しい外観を持つ建物を作りたいと考えました。
そのために新建築などを眺め、どのようなカタチが自分の中の美意識に近いのかを探りました。
その中で自分が美しいと感じるようなカタチはピエール・コーニッグ氏のケース・スタディ・ハウスのようなものでした。
とにかく外観だけにこだわってしまい、結果として部分を見れずに自分で見てもつまらないものに出来上がったしまいました。
思ったことは、全体ばかり見ていて部分を考えることのできないような薄っぺらな作品は後々自分で見ても何をしていたんだろうという結果に終わってしまい寂しいものだということでした。実際未だになかなか部分を見ることができていないので、部分を見る目を養いたいと思いました。

僕は人間建築か妖怪建築か考えて設計をしたことはない。全体を考えて部分を決めることもあれば、部分的に考えて積み重ねることもある。そこで今まで自分で設計した二つのものを事後的に考えてみます。

共に言える事は二つとも始めに全体の形を考えていたということです。それはエスキスなどを繰り返すたびに変わっているのだが、基本は全体でした。そのほうが、全体のイメージが作れるので設計をしやすかったからです。しかし今考えてみると、その全体の形のイメージを生み出していたのは各部屋などの部分的だったのではと思います。

例えば今回の住宅ではリビングという部分を重点に考えてきました。そして、リビングから見渡せるように各部屋を周囲に配置しました。そうすることで、全体像をつくりあげていきました。部分から考えてはいましたが、やはりできあがった全体像は最初のものに似ていました。

部分から全体を考えていたと思っていましたが、結局は全体をイメージして部分を考えていたことに気づきました。妖怪建築の流れで設計していたと思っていた製図も事後的に考えると人間建築に近いもので、部分部分対処していたと思っていた製図も、実は元の全体のイメージにとらわれていました。

今まで全体と部分について考えたことが無かったので、この間製図でやった住宅設計を事後的に見て評価したいと思う。
住宅を設計する時、各部屋の大きさや位置の関係性を大事にしていたと思う。述床面積110㎡ということを念頭に置きながら、家族三人ならリビングはこの位の大きさでとか、リビングがこの位置だからトイレはこの位置でとか。その後に廊下や階段で空間をつなぎ、適当な大きさだと思う窓を付け、完成。
しかし、講評会の時に「何で階段の天井をこんなに高くしたの?」とか、「このピロティーはカネがかかるし、あまり意味無い」と言われた。言われてみれば納得だが、なぜこうしたかと言われると困る。ただなんとなくとしか言いようが無かった。僕は自分なりに関係性に従って設計を進めた。しかし、自分が良いと思う空間を作ったと同時に、意味のわからない空間も生まれた。つまり、僕が考えていたものには何かが足りなかった。岡田先生に「立体的な造形を考えるという点が不足している」と言われた。つまりそれが足りなかったのだと思う。
全体的に見れば、そこにある関係性は薄れ、こだわった良いと思う部分と意味のわからない部分が同時に際立つ。僕はそこに気づかなかったのが悔しい。
意味のわからない部分は、全く関係性が無い事から妖怪的な部分だと思う。今回の僕の作品にとっての妖怪的な部分は「どうしてこうしたの?」と聞かれて困るところだった。しかし、部分的には関係性は無くとも、全体的に見れば効果的に機能するものもある。全体的に見たときに関係性が見えてくるものもそうだ。そういう魅力的なものを作れたらいいなぁと思うし、そういった視点の違いというのは面白いと思った。

今までの製図を振り返って、作品となるまでのエスキースについて考えようと思う。
最初は自分の作品に個性をつけるためコンセプトを考えた。
次に僕はそのコンセプトをもとにあいまいだが完成を想像しつつ部分をつくる。
しかし、部分を作るうちにおかしな所がでてきたり、もっと奇抜にしようと考えてしまう。
そこで僕はいつもコンセプトを忘れ、つじつまあわせに逃げ込んでしまう。
コンセプトという一貫性をもった個性ではなくさまざまな物に手をつけた結果である。
そこで僕が今思うのは一部分にとらわれたら全体は見えない。しかし、関係性のない部分からなる妖怪建築から全体の統一性をはかるのは難しいと思うがそれが達成されたときに本当に満足のいく作品ができるのだと思う

 今回の住宅の設計を振り返って思ったことは、何を主張したい建築かがわからなくなってしまっていた。
 その大きな理由として、最初のコンセプトにさらにいろいろ付け加えていった結果、建物のが全体的に膨れ上がっていってしまった。これは部分で見ればそれぞれのコンセプトのもと考えて造っていたものの、全体としてみたら、お互いが主張の強いものであった。
 しかし、それぞれの部分における考えは、自分の中ではまとめられていたと思う。部分で考えていても、常に全体の完成を想像しながらつくっていくべきなのかもしれない。
 今回の設計で、自分は最初のプランを一度も大きく変えずに、そのコンセプトのとにさらに部分で造られたものを付けていった。そのため最初のコンセプトが部分に飲み込まれた形になったのかもしれない。壁にぶち当たったら、もう一度、自分が一番表現したい部分に返ってみることが大切であると強く感じた。

“彼女の作ったカレーは不味い”
こんな見出しを付けて私は全体像と部分の折り合いを料理を作るという作業に例えてみる。

料理を作るときはある程度こういうものを作ろうという全体的イメージある。例えばカレーを作ろうと思った場合、必然的にカレーという全体像が現れる。それは自分が味わったことのあるカレーというものであり、それには個人差が生じる。(私の場合は母の作ってくれた味を思い出すが・・・)そしてその味をもとに食材を選んでいく。そしてその結果、出来上がったカレーは必然的に自分が味わったことのあるものになる。多少食材などが変わろうが自分の味になっていることがよくある。
逆に賄い料理などは食材(ここでいう部分なるもの)が先にあり、それをもとに全体像を見ていく。冷蔵庫の中に残っている食材を確認し、この食材だったらカレーを作ろうといったように、、、しかし食材が変わろうとも出来上がったものは以前食べたものとあまり変わりがないのである。すなわち全体から作ったものも部分からつくったものもいずれも似かたよったものになってしまうのである。
これは自分の建築に対しても同じようにいえる。透明な塊がくっついたようなものをつくろうなどと全体像をある程度決めてつくった建物も、階段はこうしよう・テラスはこれぐらいの大きさにしようなどと部分から入ってつくった建物も結局は以前自分がつくったようなどれもどこか似たような建物になってしまう。このようなことが徐々に自分の個性となりうるのだろうか?自分のカラーとは作り出すものではなく、内在している全体像と部分との折り合いから浮き出てくるものであるのかもしれない。

僕も人間的、妖怪的な考えのもとで最初から設計していたわけではないので前回の住宅を事後的に評価したいと思います。(文章力がないので起承転結になっていないと思いますが勘弁してください・・・)

自分がどう自分の作品を悩みぬいて決めていたのかを思い返してみました。そこには部分の追求と全体の追求を交互に繰り返し最後に作り上げる。それをまた最初から繰り返すというものでした。

まずコンセプトを選び最初に何を考えたかというと、家のデザインという全体像と部屋のつながり方(どの位置に何があればどう影響を与えるのか)という部分像でした。それをまったく別々で考えていきます。子供が遊べる空間を建物の形で作れるといいなぁ~。キッチンとリビングがここにあるからここで動線をまじらわせよっと。とか・・・最後に別々に出来上がったイメージを組み合わせます。そこで出来た不都合な部分を改善しようとどちらかの場合からアプローチをかけ修繕します。しかしあちらを立てればこちらが立たずと言うのでしょうか?また不都合がでてくるのでそれを何度も繰り返して作り上げていました。

これをやっている当初は問題が考えれば考えるほどに出てきてまったく進まずに意気消沈していました。でも、今考えてみるとこの方法が自分には合っているのかな?と思います。

何かに特化したところが欲しいと思いつつ手に入ってない事から嫉妬というか劣等感を感じているのかあまりデザインだけとか使い勝手だけはいい。みたいなモノは好きになれないようです。僕はこの『人間と妖怪が平行に進み、結合して妖怪人間が生まれる』考え方をこれから意識していきたいと思います。

僕は部屋から庭を見て、そこに車などの機械的なものが見えるのがあまり好きじゃないです。
そこで、今回の設計ではピロティーを造りそこに車を停めるということに最終的には行き着きました。
その間には車を窓のない壁の真横に停める、地下に停めるといった案がありました。何度考えてもしっくりくるのがなかったので、やめました。
ただ地面の上に停めるという人間的なものではなく、建物の下に停める、一部となるといった妖怪的なものが良かったのかな。
駐車スペースという部分が住宅という全体の中でどう見えるのか。事後的に見てみると、全体の中の一部分なのでそれほど大きな影響はないように思える。
全体があり、そこに部分をくっつけると部分が隠れがちになる。逆に部分から全体をつくるとそれが緩和される。人間と妖怪の共存は難しい。
でも、安部君が述べた妖怪人間という新しい生き物はありだなと思う。

 前回の課題である住宅において、最初四角な建物を造った。
 次に自分は曲線的な建物に有機的な感覚を受けたので、人の動線に沿った曲線建築を用いることにした。進めていく内人が溜まる場所、つまりリビング・ダイニング・キッチンまで曲線にする必要があるのかということに戸惑い、四角を用いた。
 しかしそれでは、全体的なまとまりがなくひとつの建物として統一感がなくなってしまうということに気がついた。
 そして様々な検討をした結果、それぞれの部屋に意味を持たせ、個性を出すということに行き着いた。まさに部分である。結果、部分に行き着いたことにいたったが、もう少し検討すべきだったと後悔もしている。
 

今回の住宅の設計について。

 今回の製図でコンセプトを決めるのに四苦八苦した。この段階でかなりの時間を割いてしまったことが悔やまれる。建築の時間的制約を感じた。コンセプトは最終的に、施主が趣味の時間を十分に満喫できる空間をつくろうと考えた。
 
実際にこのような空間をつくろうとしたとき、最初に2つの案が思い浮かんだ。“共有スペースを含む建物の内部全体を趣味の空間として埋め尽くす”という案と、“趣味の空間として特化した空間を設ける”という案であった。今考えると、前者は全体性を意識したうえで部分を、後者は部分を意識した後に全体性を考えていたように感じる。前者は人間建築、後者は妖怪建築といえるのではないだろうか?(認識不十分で断言できません。)結局、後者の案を選んだ。
 
しかし、作品として出来上がったものは特化させた部分に拘るあまりに、その他の生活する上で重要な空間が陳腐でアンバランスなものになってしまった。中途半端に変化してしまった、妖怪になり損ねた人間のような。方向性は決まっていたと思うけど、カタチにしていく途中で矢印の向きが変な方向を向いてしまっていたのだと思う。たぶん僕は、設計の最中に部分から全体、全体から部分の矢印がくるくる回っていたのだと思う。
 
人間建築であろうと、妖怪建築であろうと、設計するときには自分の考えの方向性を把握していなければいけない。そうでないと、不明瞭で不安定なものになってしまう。当たり前のことだろうけど、今回の課題でそれを痛感した。ただ、安部くんがしたように2つの関係の折り合いをつけていけば、あるいはよりよい建築になったのかもしれない。


お題の意図した観点とは違う観点からの結論となってしまった気がするけど、この観点からの問題が解決しないと議論のできる観点にならないと考えたので勘弁してください。

私の考えた住宅を全体的に見ると大きな平屋で「ロ」の字型であるということである。部分を一つ一つの部屋と考える。そこで、私が先に「ロ」の字型を決めたか、それとも、後に「ロ」の字型になったのかを考える。

まず、私は中庭を家の中心に置くことを決めた。このときはまだ、「ロ」にもなり得るが、「O」にも「P」にも「D」にもなりえたわけである。しかし、私が「O」「P」「D」にしなかったのは、曲線は部屋として使いにくいと考えたからである。他にも「A」も家の中心に庭があるが三角の部屋は不便であり、不採用である。

では、なぜ真四角になったのかについて考えてみる。別に真四角でなくてもでこぼこした四角で庭を囲むこともできたわけだ。しかし、あえて真四角で完全な「ロ」の字型の建物を設計したかと考えると、それは私が全体性を考えたからであると思う。それぞれの部屋をまず配置した後、「ロ」に近づけていったのが事実である。

そこで、先に述べたように「ロ」の字型が先か、それとも後に「ロ」の字型になったかについての結論は後者の後に「ロ」になったといったほうが正解に近い気がする。なぜこのように曖昧な結論を出したかというと部分を重視し、しかし全体性を軽んじず、部分→全体→部分の順番で考えたからである。部分性だけに肩入れすることなく、同時に全体性を考えるということが重要だと思う。しかし、完全な「ロ」の字型にすることによってのリスクもあったわけであり、そこをあえて突き進んだことで私自身のエゴによってできた住宅になってしまった。そのリスクをカバーできる工夫がもっとできればよかったと思う。だから、部分性、全体性、どちらに考えが偏ってもいけないと思う。

前期のスタジオXについて考える。

まず私は、この建物の外観から考えた。スタジオXは自分の性格をイメージした建物を考えるというものだった。そこで自分の性格は“目立ちたがりだが機嫌の上下が激しい”と考え、正六角形(目立ちたがり)の全面ガラス張り(いつも明るくいられるように)という外観にした。

その中に必要諸室を入れていった。建物の中も出来る限り明るく、開けた空間にしたかったため、部屋を狭くし、部屋の形を三角形にした。(分かりづらくてごめんなさい。)
そして建物の中心にガラス張りの正六角形の会議室を設けた。

それで満足してしまった。出来上がったものには、無駄で無意味な空間が沢山生まれてしまっていたのである。しかもそれぞれの部屋に合った広さになっていなかった。空間の使い方の下手さに気付かされたのである。

形と中身の両方のバランスを考えながら設計するべきだった。かといって、それらの関連性を無視した妖怪建築に上手くまとまったわけではない。
結局、この作品は人間建築にも妖怪建築にも辿りつけていないものに仕上がってしまったのだ。
人間建築、妖怪建築それぞれどちらかにこだわり過ぎないような作品が機能的にもデザイン的にも最もまとまったものに仕上がると思う。

前期に設計したアトリエについて書きたい。後期の設計でもそうだったが、僕の中で建物は一つのかたまりに収めるべきだと考えている。わざわざ部分的なものをつける必要がないと思っているからだ。
エスキスを重ねるが部分的なものをつけるという選択肢はなかった。下手に部分的なものを加えると全体の見た目がおかしくなると思ったからだ。そして一つのかたまりの建物のままで、発表に至った。
しかし、今回の講義で、妖怪建築に注目することで、今年の夏休みに京都駅のいろいろなかたまりがついた形を見て、圧倒されたことを思い出した。また、自由な感じで、未来的な外観がとても印象に残っている。さらに、部分的にも全体的にも違和感無くしっくりしていた。
僕は建築の部分的なところは今まであまり注目していなかった。というより、必要性をあまり感じていなかった。しかし今回の講義で妖怪建築は実際に多く存在することを知り、今まで特別視していなかったので、建築の新たなおもしろさを感じた。

まず、自分の作品は途中経過を見ても、事後的に見てもバランスが悪い。それは各部屋の床面積についてであり、不足と無駄が目立ったプランだった。
これは自分がこの課題を最初に部分で考え、自分が心地よいと思う空間は無駄でも大きくし、それらをつなぎ合わせたプランだったからだ。しかし最終的には延べ床のことを考え、建物を全体として扱い、無駄を省き、不足を補ったつもりだった。つまり妖怪建築から始めたが最後は人間建築に行き着いてしまったと自分で感じた。だが、講評会では未だバランスが悪いと指摘され、実は自分の建築は人間建築としても未完成だということに気づかされた。
ところで立面における妖怪建築は可能なのだろうか。自分は最初のスタディー模型を見ると笑えてくる。それはひとつの住宅の中に箱やらアーチやらいろいろなボキャブラリが混在しているからだ。これは見るからに妖怪建築で、他との関係性などまったくの無視だ。しかし最終的にはひとつのボキャブラリで統一した立面が出来上がった。それについては自分としても納得のいくことで、統一感のない建築は受け入れられがたいということは感じることができる。それと同時に、だとしたら立面における妖怪建築など発展可能なのかと自分は思う。
これらを考えたとき自分の建築は未だ妖怪建築、人間建築にも属せない未熟なものだ。しかし自分としては、その二つの建築を時と場合によって使い分けることができればいいと感じる。

二つの設計を事後的にみて言えることは全体の中に部分を当てはめていたことである。つまり人間建築である。またある部分をこうしたいから別の部分がこうなってしまった、という傾向があったと思う。つまり機能的には満たしているが他の理想を求めたため、自分の理想とは違う未完成な部分が多少はあるにしても自分の作品には多くできた気がする。
しかし全体を捉えてから、規模のあっている部分を当てはめていったので、まとまっている印象は受けると思う。だが逆を言えば自分の作品は自分のやりたいことを抑えて無難にまとめあげたものでしかないと思う。だから自分に必要なのは妖怪建築から、その全体をまとめあげることにあると感じた。

今回の住宅を事後的に考えてみと、部分と全体との関係性が曖昧になっていたように感じる。それは形だけの話ではなく、部分が持つ意味のことでもいえる。

計画している段階で、自分の頭の中に浮かんでくるアイディアは部分的なものばかりだった。その「部分」をどんどん練っていき、自分が表現したいイメージに近づけていった。

しかし、部分の形に力を入れ、そうでなければならない理由というのが疎かになってしまっていた。その結果、模型を作ってみると、明らかに「部分」が浮いて見えた。全体と部分とがつながっていない感じがした。

つまり自分が設計した作品は妖怪建築だったということだろう。部分を強調する建築はおもしろいと思うが、一つのテーマに基づいていなければ、方向性がバラバラで、見苦しい建築になってしまうと思う。設計するには、強いコンセプトが必要だと思った。

私は住宅の課題でコンセプトを「床に直接座る家」と決めた。このコンセプトに関しては自分でもいいと思っていたし、そこは評価された。部分的なイメージもあった、他の人とは少し違うコンセプトなので、考えれば面白いものができるだろうという微かな自信もあった。

最初の設計では家全体を考えながら設計した。しかし最初からうまく設計することができなかったため、いくつもプランを変えた。最終的にはテーマを反映したいくつかの部分で家全体にそのテーマをちりばめていったものができたのである。

しかし、事後的に見ると笑えて来る。私の作った建築は“薄い”のである。部分的にも全体的にも薄い。よくも設計してたときはこれで納得してたなと自分の頭を疑うぐらいである。部分的なコンセプトも不完全で、全体的に見るとひどい。ただのつじつまあわせだ。講評会で部分的な要素が多すぎて全体的なまとまりがなとも言われた。よく考えてみれば当にそのとおりである。

要は、今回の作品は妖怪にも人間にもなりきれてないし、そこに達してもいない。妖怪人間と呼ぶにも程遠いと思った。人間でも妖怪でもやはりどちらかひとつでも極めないことには完成とは呼べないだろう。妖怪とも人間ともなれない未熟なものには誰も見向きもしてくれないのだから。

今回の住宅について考えてみます。まずこの住宅の間取りを見ると全体を重点的に考えてあると思いました。
 各部屋を4.5mと3.6mのふたつの単位を使い、廊下を1m幅にして間取りを構成しました。次にプライベートな空間とパブリックな空間を分けて、各部屋の間に外部の空間をつくってそこに緑を植えて部屋との一体化をやりました。しかしこの外部空間のスペースをもっと大きくとって坪庭のようにすればよかったと少し後悔しています。
 間取りは全体について考えてあると思うが、窓についてみてみると、各窓の大きさの比例もなく、かといって部分としても成立してなく適当に窓を開けただけであると思った。
 部屋の間取りは全体として自分なりには成立してあると思うが、それは偶然の結果であると思います。今回の授業だけで正直言って全体と部分について理解できてないのでまだまだ勉強が必要であると感じました。

住宅の設計について事後的に見たことを書きたいと思う。
 はじめに考えたのがコンセプトだった。コンセプトはプライベートとパブリックの融合だった。このコンセプトをもとに模型を作ったのだが、自分でもコンセプトが建物に反映されてないし納得がいっていなかった。
 それを製図の授業で提出し、先生に言われたことはやはりコンセプトと建物があっていないということだった。いろいろ考えながら設計したから形としてはよいと言われたがコンセプトを変えたほうがいいと言われ、コンセプトを変えた。そして形を生かすコンセプトを考え、以降、設計を進めていった。
 そこで気づくことは、はじめに僕がやっていたことは人間建築だったのだろうと思う。それはコンセプトを決めていたのにも関わらず、コンセプトとあまり関係のない、全体的にまとまった建物を作っていたからだ。それに対し、コンセプトを変えてからやっていたことは妖怪建築だったのだろう。あのインパクトのある形にこだわり続け、最終的にもあの形を押し通した。
 実際のところ、講評会で言われたのは、形はインパクトがあるが中身は普通という結果だった。部分である形にこだわり続けてしまったために中身にまで配慮が行き届いていなかった。妖怪建築にこだわることによってインパクトはあるが未熟な感じが残る。一方、最初にやっていたことだが、人間建築を作ることによってまとまっているが、何が言いたいのか伝わらないものができる。僕の場合はそうだったのではないかと思う。妖怪建築と人間建築は、そのバランスをうまく保っていかないと本当によい作品ができないのではないかというのが、この反省から考える僕の意見である。

今回の住宅において最初の案は人間建築だった。しかし、最終的に出来上がったものは妖怪建築だった気がする。

それは途中から建物をズラして、なおかつループ状にしようと考えたからである。そのためにはそれぞれの空間の大きさを決めることが必要だった。しかし、ループ状にすることがこんなに難しいとは思っていなかった。何回も繰り返してループにしようとするのだがなかなか思った大きさにならなくて苦労した。パズルをしているような感覚だった。

しかし、これはパズルと違って答えもゴールもないような気がした。パズルは全体の中に都合よく当てはめていくようなものに対して僕の住宅は部分を都合よくつなげることで全体ができるという反対の考え方だった。よってつながり方が中途半端だと崩壊したり、些細な変更に対してもあまり柔軟に対応できないとても繊細なものになった気がする。

結果的には自分のイメージに近いものができた。しかし、少し無理があったような箇所もあるかもしれない。でも住宅はある特定の人間が生活するものなので住人に気に入ってもらえればその無理なところも解消に向かうのではないかと思う。

コンセプトとは、これから自分が作るものをこんな風に設計したい、あるいはこうなってほしいとまず始めに決めるものであり、同時にそれはこれからの設計の全体を貫く統一的な視点・考え方である。僕はコンセプトを決めるのが苦手である。

コンセプトをもとに今度は部分的な設計に入るわけだが、どうもそのコンセプトにしっくりくる設計ができない。ただ単にコンセプトが抽象的過ぎるのかもしれないが。でもそのままエスキスを繰り返し、なんとなくコンセプトに近い設計をする。

そしていざ建築が出来てみると、意外と全体にバランスの取れた建築が出来上がった。しかし今度は部分的に見ると、それがごくありふれた建築に見えてしまい、あまり独創的ではないと思った。このとき僕は、全体よりも部分の方が苦手なんだと気付いた。

全体の計画が出来ても、部分の計画がしっかり出来ていないと人間建築が妖怪建築になることはない。と思った。

 妖怪建築と人間建築の話から都市・街の姿が思い浮かびました。
計画され整然としている都市は人間、雑多で混沌とした都市は妖怪といえるでしょうか。
私は路地空間や色々なものが混在しているような場所、ごちゃごちゃした雑多な感じから受ける人の活気のようなものやスケール感が好きです。

 卒業設計で私は路地空間の再生を試みました。
計画地は市街地のメインストリート裏手にある道幅が狭く、通りがまっすぐに抜けていない周りから取り残されたような地区です。木造建物や間口の狭い建物が多くひしめき合って建っている場所で、そこには個性的なお店が沢山あり、多くの人が出入りして通りに活気がありましたが開発が進み、古い木造建築は壊されて駐車場になったり、敷地がいくつかまとまって大型のビルが建ったりと変化していっていました。
私の好きなスケール感がだんだんと消えていっている中でなんとかその歩く楽しさを残したいと思い全体を回遊させる装置としての建築を点在させることを計画しました。
建築物の中に細い路地を取り込んだり、機能的に異質のものをぶつけることで街が失いつつあるものを作ろうと考えました。そしてそれらを点在させて結ぶ。

結果としては計画された路地を作ったということになります。
‘部分’が勝手に増殖し、ぶつかり合う中から生まれた混沌に魅力を感じていたのに
計画したものをたてるということに矛盾があったように思います。

 今考えると部分と全体をうまく捉えることができていなかったような気がします。
まだうまく整理して考えれていないかもしれませんが‘部分’を徹底して追求してみると面白いものが生まれるかもしれないなと思いました。

 質問です。コルビュジェの5原則が妖怪建築というのが実物の建物から受ける印象と何だか一致しません。5原則の部分が計算された全体バランスを見据えて構成されているように思い、部分の増殖結びついていかないです。妖怪建築自体の理解ができていないのかもしれないですが。原広司の部分論についての参考文献など教えて下さい。よろしくお願いします。

Looking back on the previous two projects, I have realized two of them were firstly designed under different approaches.

Studio X was based on the necessity of work needs and functions of different rooms were firstly considered before drawing the external design. This may be seen as from parts to the whole.

However, during the housing design project, I began with the external as a whole and work deep into each room. Despite the external look was more or less close to what I expected, but the end result with this project was unsatisfying in terms of the internal planning and active zonings across family members and these are the fatal mistakes I have made.

Unlike the first project, the second project obviously had more limitations to follow and I understand a real construction work will need to compromise with far more limitations and rules compare to what we were given at the class. I think with my future designs, it is essential for me to understand the balance of parts forming as a whole but not a whole without parts.

今回の住宅の設計は具体的なコンセプトがはっきりとしなかったので、まず様々なパターンを描きだすことから始まった。
その中で、いくつか共通点が見つかった。それは吹き抜けと大きな開口、そして3面がガラス張りで他の部屋より約1m天井が高い展望台のようなフリースペースだ。これらを軸に必要な部屋の位置や天井の高さ、ほかの開口部などを設計していった。
しかし、先生やTAとエスキスをしたり自分で考えていくうちに、フリースペースと吹き抜けは最初のイメージ通りに残ったが、開口部はどこでも普通に見られるようなものになった。その代わりに南立面、屋根、北立面に連なる窓をつけた。
出来上がったものを見ると、特徴的な部分を際立たせるために他の部分を設計したつもりだったが、全体のバランスが悪くなっている気がした。それは人間でもなければ妖怪でもない中途半端なもので、未完成というか、まだまだだなぁと思った。

前回取り組んだ住宅設計では三角屋根を中心に外形から考え始め、その屋根の形を出来るだけ崩さず設計していくことを目標に進めていきました。
はじめの方の案では自分の思い描く気持ちのいい空間、自分のコンセプトに近い空間をただ屋根の中に並べただけに過ぎませんでした。それぞれの部分でしか考えられていなかったこの案はまさに妖怪建築で、今思えば、他の人とは異なり自分なりに一番アピールできるはずの屋根は何の意味も成さず、ただの飾りとなっていたように思います。
しかし、エスキスを繰り返すうちにヒントやアドバイスを貰い全体について考えるようになりました。すると自分の思い描く空間は全体を見ることで、その空間の良さが奪われていたように思います。ただ、自分でその空間の良し悪しを判断することは大変難しく、ヒントを得なければ気付く事すら出来ませんでした。その後、部分を妥協し何度か全体について考える事で人間建築に近づき、結果的に良い空間が生まれました。それは、自分の意図するものもあれば、ないものもありました。
最終的に住宅設計では全体と部分について、全体を優先し対処したように思います。自分の設計において、その対処が正しい対処であったかどうかはやはり今の自分では判断が難しく、まだまだ勉強不足であるといわざるをえないと思いました。

 私は、前期の課題であったスタジオXについて考えてみたいと思います。
 私はこれからも楽しく過ごしたいということで、コンセプトをおもちゃにして、スタジオを設計しました。そこで、私は廊下を迷路のように長くしたり、部屋に段差をつけたり、壁にはしごをつけたりしました。
 しかし、廊下を長くすると住みにくく、廊下は出来るだけ短くするものだという指摘がでました。今思い返してみて、ただ長くするだけではなく、長い廊下を歩いてもいいと思える何かが廊下の途中にあったらよかったのではないかと思います。
 私の場合、住みやすさをあまり考えておらず、コンセプトにこだわりすぎていました。部屋の大きさも外観から考えており、大きすぎたり、小さすぎたりというものもありました。そう考えると、私の設計したのは妖怪建築なのではないかと思います。

 私の今回設計した住宅のテーマは、「縁側のある家」でした。このテーマからわかるように、「縁側」という部分から考えることを始めました。
 「縁側」をどのように使うかを考え、最終的には、中庭側の窓を開けると家全体で縁側気分を味わえるような住宅にしたつもりです。また、家全体のつながりを意識して、横長の窓や、あなぼこをたくさんあけました。常に家全体のことを考えていたので、この住宅は、部分の増殖である妖怪建築というよりは、人間建築よりだと思います。
 しかし、縁側、窓、あなぼこ、全体の一体感を重視したため、その他の部分が犠牲になってしまったように思います。例えば、子供部屋や寝室に、西日が入ることや玄関がないというようなことです。なにかを優先すると、ある程度の犠牲がでるのは仕方がないかもしれませんが、それにしても大きすぎる犠牲でした。
 したがって、今回の住宅は、人間建築を試みたものの、失敗してしまったように思います。部分の増殖である妖怪建築、部分と全体の比例を基礎につくられた人間建築、両方のことを理解しないと大きな犠牲のない、バランスのとれた建築はできないと思います。

過去2つの設計を振り返るとどちらも人間建築であった。
というのも僕ははじめに全体の型をつくって、その中に部分をいれていた。
しかしそれらはすっきりしてはいるが妥当で面白みに欠けていた。個性がなかった。そして2つとも似たような作品になっていた。
コンセプトの弱さもあるだろう。それに妥当から離れられない。もっと部分の世界に踏み込むべきだった。考えの浅さを感じざるを得ない。

今回の住宅設計について。
最初コンセプトを考えたとき、多すぎると言われた。それは自分がこれやりたいと思うことがたくさん出てきて、ただ単に並べただけだったからかもしれない。
次にゾーニングを繰り返しすっきりまとまったと思ったが、それはそのへんにありそうな普通の人間建築になってしまった。だから最初に並べたなかで一番自分が大事だと思うものに重点をおいて考えてみることにした。
最初からやりたかった木造というの変えずに、コンセプトをまとめてできた一つの案はまぁ前よりは少しよくなったかなと思いました。しかしそれは全体の形としてまとまっただけで、部分的に見れば全然まとまりきれてなかったのかもしれません。
今回の住宅課題で自分にはまだ知識が少なく、まとめる力もまだまだだと思いました。条件のあるなかでまとめることはずごい難しいことだとおもいました。それは逆にやりがいがあっておもしろいと思います。だからその力をこれから養っていけたらいいなと思いました。

住宅設計に関して。

設計の過程を思い返してみると、自分は部屋の配置で苦労していた。「家族を感じられる空間」という全体像をおきながら部分創りに多くの時間を割いた。だいたいの配置が見えてきてからプロポーション面で全体を考えるようになる。平面的にも立面的にも。外観に関しては、須坂という立地が私の意識の大半を占めていた。最終的に蔵のような形に納まる。

これは「中身のコンセプトと配置」そして「須坂と家のかたち」という2つの『全体と部分』に対して自分は取り組んでいたということになるのだろう。

作品として全体であった住宅が部分になった。須坂というまちに参加する部分としてできあがった。このようにさせたのはきっと、全体としての意識にあふれたまち、須坂の存在の影響なのだと思う。

全体が先か部分が先か…自分にはわからない。全体にむかって部分を熟考するかたちが、どうやら私の好みらしい。

 妖怪建築と人間建築のどちらが好きかと聞かれたら、私は妖怪建築が好きだと答える。見ていて飽きない。理由はわからないけれど、ひどく惹かれる。あらゆるでっぱりやへこみを、自分のものにしたいとまで思う。
 それなのに、今まで設計した建築二つは、どちらも人間建築だった。これは私の妥協だった。最初に形を決め、そこに無難な間取りをとった。人目をひくような面白いものを作ろうと思ったはずなのに、最終的には面倒になって、住めればいいじゃないかと思ってしまった。
 人間建築が悪いとは思わない。すっきりとした形はむしろ好ましい。けれども、今までの私のやり方は絶対に間違っていた。本当に好きなものを、面倒でも何でもきちんと作りあげるべきだった。
 後期二つ目の課題も始まった。今度こそ、自分が好きだと思える、魅力的なものを設計したい。もう人間はやめて、妖怪になってしまおうと思う。

 前期のスタジオ、後期の住宅、ともに、目指していたのは人間建築だったようですが、今考えると、人間建築にも妖怪建築にもなりきれていなかったように思います。
 どちらの建物も初めは、自分が作りたいと思う全体に、構成する部分それぞれを上手く結びつけようと考えて作っていったはずなのですが、終わってみると結局は全然上手くつながっていなくて、全体におさめるためにこじつけた、ただの部分の集まりになっていました。
 自分では色々考えて作ったつもりでも、後から客観的に見てみると、自分の設計した建物の見所、魅力のなさにとても驚いた。
 今回、部分と全体について学べたので、それにこれまでの反省を活かして次の課題に取り組みたいと思いました。
 

住宅の設計において、私はまず必要諸室を考え、ゾーニングでどこに配置したらいいかを悩みながら形を決めていった。つまり妖怪建築をしようとしていた。
しかしその結果できた模型はいびつでがたがた、まとまりがなかった。それは自分にうまく形をまとめる力がなかったのもあるが、場所にとらわれすぎて頭が固くなっていた。
そこでおおまかな外観から設計しようと思い人間建築を目指した。しかし外見を決めて部屋を入れていくと、自分の1番見せたい部屋が活きなくなってしまった。
今思うと1番見せたい部屋(部分)の配置を考えてから外観(全体)を考えればよかったと思う。

自分が始めて製作した前期の課題について考えてみます。
住宅の課題もそうだったけれど、僕はカタチから計画している。そのカタチにコンセプトをムリヤリくっつけて作った作品が前期の課題だったような気がします。
しかし、この方法で計画すると、外部空間にだけ考えが集中してしまい内部空間が完全に疎かになってしまう。
その結果、前期の課題では、水周りが集中していない。高すぎる天井。そして、講評会ではお化け屋敷と評価される自分でも納得できない建物が出来上がりました。
この課題で思ったことは、下手に外部から入っていっても中途半端なものしか出来ないということです。住宅の課題もこのような考えが入ってしまい、結局自分の思い通りのものがつくることができなかった。やはり外部空間と内部空間とコンセプトが上手く咬み合わなければ、人が納得する建築物はできないと思いました。

私が考えた住宅は、3つの積み木を組み重ねたような形をしている。使いやすさを考えたら、使いにくいに決まっている。しかし、思いついた形が気に入ってしまって、最後までその変な形にこだわってしまった。外観を変えたくないがために、いまいち内部がおろそかになってしまった。

この住宅の問題点は三角形の角の使い道である。階段を上っていくと、その問題の角にぶつかる。階段と床の間の踊り場のスペースが少な過ぎて、死ぬぞといわれた。しかし、そこに階段を置くのが一番きれいだと思って動かさなかった。今回の私の作品は人間建築ではない。外観と内部が比例してない。外観に重きをおいてしまった。

しかし、始めから終わりまで外観のみを考えていたわけではない。外観を変えずに何とか快適に暮らせるように内部を設計できないか考えた。結局、ダメだと言われてしまったが…。

今回、外観という部分的な所から考えてしまったので、私の住宅は妖怪建築になってしまったのかもしれない。部分にこだわってしまった後に、全体に目をむけても何かしら問題が出てくる。しかも、こだわりが邪魔して解決しづらい。始めから、全体に目を向けて考えることができたなら、もう少し住宅らしい住宅ができたのかもしれないなと思った。

私は手作業が割と好きで、たまにはぎれで何かを作ったりする。ずいぶん前にスカートを作った。スカートといってもウエストはゴムが入っているすごく簡単なものだが。
スカートを作ろうとした時にはじめに完成図などは一切書かなかったが頭の中ではこんな風になったらいいな、という想像はしていた。
しかし、出来上がったものを見たら理想通りにはいかずかわいくならなかった。けれど出来上がってからの思いつきで裾にフリルを入れてみたらなかなかよくなった。
このことは全体として出来上がったあとでも部分によっていかようにも変わるということを言っていると思った。部分は全体の印象を変える力を持っているのではないだろうか。

遅くなってすみません。

 オリジナルの演奏がいいのか、それとも楽譜通りに演奏するのがいいのか。合唱コンクールの採点基準でよく問題にされる部分である。前に話した箱と袋とはまた違うことを書こうと思う。
 地区大会は技術の問題等でそれぞれを評価するのが難しいので、全国大会を例に挙げる。北海道の中学校の合唱部が毎年ほぼ必ずといっていいほど1位金賞を掻っ攫っていく。それはもう聞けば一目瞭然で、音のブレが全くなく、まさに楽譜どおりの演奏だからだ。実際全国ではなく地区で聴いても思わず唖然としてしまうほど質が高い。実際音程等の技術だけで言えば、高校生よりもずっと上ではないかと思う。しかし、彼らの学校についたあだ名は皮肉にも「Machine」その名のとおり機械である。楽譜通りに歌って、音程にブレもない。まさにパソコンのシーケンサーで作ったmidiと同じ。中学校であそこまで技術のある学校がないので、実際に1位を取っていっても何の疑問もないのだが、悲しいかなそれは納得してしまう自分も居る。それはある種で妖怪であり、ある種で人間であるのではないかと思う。
 私の建築で考えてみると、やはり普通過ぎるのだ。間取りを見ても、外観を見ても。おそらく今回の授業の観点で言えば、間違いなく人間になる。人間がこう動くからここに配置すると動きづらい…等の考えが邪魔してなかなか最初の間取りが変化していかない。逆に形から入ろうとすると人間が生活できないような家になってしまう。
 合唱における審査員とは施主、演奏者とは建築家。そのように於いたとき、審査員は楽譜通りを選ぶ。しかし、人間と妖怪が上手く調和していれば、おそらく審査員はただの人間を選ぶよりも妖怪人間を選ぶのではないかと思う。基本的に人間は妖怪を倦厭するものだ。ただし、今回挙げた中学校の例では完璧な人間としての演奏が、完璧すぎるがゆえに妖怪となってしまった。つまり、普通過ぎる(人間らしすぎる)家も或る人にとっては妖怪と化し、倦厭されてしまうのではないだろうか。

前回の住宅の設計ではコンセプトを光として設計を進めていった。
 そのコンセプトに則り、光を取り入れるために屋根を傾けたり、トップライトを用いたり、反射する光を利用したりなど全体のバランスを考えて形を作っていった。それから内部の部分を全体の中に構想していった。
 しかし、各部屋ごとの窓を考える上で最初に考えていた全体性を無視してその部分だけのことを考えて窓を作ってしまっていた。そのため出来上がった外観を見たときに全然バランスが取れておらずまとまりのないものになってしまった。
 設計し終えて事後的に見てみると始めは人間建築として考えていたのに途中からだんだんと逸れて行き、妖怪建築になっていったと思う。しかもそれがどちらも曖昧であった。もっと部分と全体が釣り合うように考えていかなければならないと感じた。

今まで設計したものを振りかえってみると、設計をする際に一番悩んだのは各部屋の配置であったと思う。部分をつなげて全体ができたのか、全体を考えて部分を決めたのかはよくわかりません。

最初はそれぞれの部屋のイメージがあったのではないかと思います。その部屋の使いやすさや他の部屋との関係性を考え、広さや高さ、配置を何度も考えて決めていき、建物を設計していきました。よって最初は部分から全体を考えていたのかなと思います。

しかし実際は始めから全体的な建物のイメージがあったように思います。というのも部分のイメージは結局全体のイメージにつながるからです。

基本的な建物全体のイメージがあり、そのイメージを部分に当てはめ部分と部分をつなげて全体が見えてきたのかなと思います。

一番最初のコンセプトを決める段階で私は趣味を一番に考えた家にするということでシアタールームを短絡的に何も考えずに決めた。趣味っていったい何があるかなー、映画鑑賞?シアタールーム?というようなかんじで。
はじめはとりあえずシアタールームがあってそれに必要諸室がついているだけ。だんだんエスキスを繰り返すうちにアドバイスをくっつけていった。それでもシアタールームがあってそれに必要諸室がついているだけ。最後の最後までその形が崩せずモヤモヤした形で終わった。
なぜそんな風になったのかと思うと常に全体のバランスを見て、変わった形にすることで一気に変化することをすごく恐れたから。それともう一つはコンセプトがとても弱く、途中自分でも疑問が湧いたりと、押し通せなかった部分があったからだと思う。
一回部分の世界にだけ踏み込んでかんがえないと私の作品は変わらないと思う。両方を経験してこそどちらかの良し悪しがわかるから次の目標は妖怪建築で反省することだ。

スタジオXと住宅設計を考えると、私の作品は人間建築のような気がする。どちらも内部は多少複雑になっていたが全体をみると(一部を除いて)でこぼこしておらず、内部の複雑さを感じさせないシンプルな外観であったと思う。人間建築をしようと特に意識しているわけではないが、部屋の配置や大きさ・形を考えた時にどこかに見た目すっきりさせたいという意識が働くのか部分よりも全体を意識して作っているように思う。とはいえ、住宅設計の窓に関しては、この部屋のここに窓がほしいと部分だけを考えてしまったために全体として統一感がなく窓だらけになってしまったが…(妖怪建築を否定しているわけではない)。しかしその後、全体のバランスを意識し考え直して、最終的には人間建築の考え方になった。このことから全体を考えることは大事だと思った。けれども私の作品は全体を考えているとはいえ、他の人と比べると見た目シンプルすぎて魅力を感じないように思う。魅せる部分をもった妖怪建築、もしくは全体を考慮してもなお魅せたい部分が活きる、または外観(全体)に魅力がにじみ出る人間建築ができるようになりたい。

古後さん原さんの部分論は以下の著書に書かれています。
原広司、1976 『空間<機能から様相へ>』、岩波書店 [B]
● 日本人によるまともなモダニズム批判。

原広司、1967 『建築に何が可能か』、学芸書林 [C]
● 有孔体理論確立の書。

遅れてすいません。5講からからアップされてるの気づかなかったもので…。

 自分が今まで設計した建物は、人間的だと思います。

 自分の中には、固定観念がすごく根付いていると感じます。なので、自分が考える案は、どうしてもデザイナーの設計というよりハウスメーカーの設計みたいになってしまいました。

 全体的…部分的、前期はそんなことあまり深くは考えてなかったです。

 今やっているオフィスは、とらわれない妖怪的な感じで仕上げたいです。


 

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