2008年01月24日

付-2お題

最後の授業は建築のがどのように意味を持つかという話でした。そこで今日はシンプルに、あなたにとって建築がある意味を持って現れた経験を書いてください。次回の講義はレポートの書き方です。

2008年01月11日

付1お題

建築の規則は前回で終了である。今回は建築創作の原理ではなく建築を取り巻く状況として建築の先天性と後天性という話である。少し前までは後天的な建築の創作原理があった。メタボリズムなどはその良い例である。しかしメタボリズムは法的な問題や技術的な問題から実際に新陳代謝することは難しくリアリティの無い建築であることが結果的に判明した。その後、後天性建築創作の原理は生まれていない。一方で先天的DNAが薄れた建物に新たなDNAを注入する作業が時代の要請となって現れている。そこで街に新たなDNAを注ぎんだ世界中の例を紹介した。
話を戻し後天的ニーズを予想した計画が廃れてしまったことを振り返ってみたい。メタボリズムは様々な問題のために廃れたのだが、それらが乗り越えられればこの考え方は未だに捨てたものでもないと僕は思っている。
さてそこで、後天性を計画するということについて建築でも建築外の分野でも構わない。事例をあげてその方法や考え方について述べて欲しい。

2007年12月21日

第九講お題

本日のテーマは建築と敷地の馴染みである。馴染みということで言えば昔こんな経験があった。20年以上も前に、高松伸という建築家が織陣という名の小さなオフィスビルを作った。それは京都の町並みの中に突如現れた奇怪な建物だった。真っ赤なたまねぎのような屋根を冠した真っ黒い石の建物であった。その建物は京都の町並みを破壊する暴力とも言われたが、その建物の前に立った僕にはこの赤いたまねぎが先ほど潜り抜けてきた平安神宮の鳥居を思い出させ何かこの街の空気に溶け込んでいるような気になった。無理やりそう思ったのではない。とても自然な感じ方だったと思う。
一方世の中には景観問題なるものがある。ちょっと前には景観法などという法律もできた。その法律は地方行政やnpoなどにより地域に即した条例の作成を促すものでユニークであるとも思う。しかしそうは言っても条例を現実化するには一律な形態や色彩の規制は避けられない。そこにおいては先ほどの赤いたまねぎの様なものは先ず規制対象にならざるを得ないだろうと思う。
われわれはここで法律の作り方を云々することもできるが、それはさておき、町並みの類似性について比較的直感的な嗜好を問うてみたい。京都の町並みのような類似なものの集まりが好きか?東京のようなカオスが好きか?もちろん好き嫌いのレベルだからそれで終わっても構わないが、そこで踏ん張ってその理由を捏造して私を説得してみてほしい。

2007年12月15日

第八講お題

本日のお話は建物とそれ以外の物や場の関係を親父的(exclusive)、オフクロ的(inclusive)という言葉で説明した。そしてexclusiveな状態を作る建築の事例をみるとそこでの創造の原理としては1)プロポーション、2)象徴性、3)ミクロコスモスなどが見受けられた。一方現代建築はプロポーションなどと言うものに余りこだわらない。象徴性を形成するためのコンテクストを共有していない。閉じた箱の中でミクロコスモスを作る茶室のような発想は消滅し、開放的という言葉が標語のように連呼されている。
さて今日のお題である。「exclusiveな何か、inclusiveな何かを発見してそれらがその関係性を他と持つのはその対象がどのような原理によって成り立っているかを分析して欲しい。例を1つ挙げておこう。京都龍安寺の石庭。この庭石は大海に浮かぶ小島のように見立てられる。そしてその象徴性ゆえにこの庭はexclusiveなものと言えると思われる。このような調子でお願いしたい。

2007年12月08日

第七講お題

本日は古来建築の主題である全体と部分についてお話した。そして部分と全体の比例を基礎に作られた建築を人間建築と呼び、そうした関係性を捨象し部分の増殖に基づく建築を妖怪建築と規定しその流れを概観した。さて人間はものを構築する上であるいは思考をくみ上げていく上で全体性を無視することは不可能である。設計図に代表される全体性の見取り図は作らざるを得ない。一方でそうした全体性が必然的に導く抽象は様々な思考や造形の断片を喪失させる。そこで君たちの今回の製図あるいは自分で設計した何かを思い出してもらいたい。その設計において、君たちは全体と部分についてどう対処していたか。事前にそうした意識があったかどうかは問わない。事後的に見てどうだったか。そうした観点から自らの設計を評していただきたい。今回は文章を4段落で書き起承転結を明確にして書いて欲しい。

2007年12月03日

第6講お題

本日から話は関係の規則となる。ここには4つの規則がありその最初が重箱と平皿である。おせち料理のような重箱料理においては食物の種類とその入れるべき場所にルールがある。一方平皿の大皿料理ではそういうルールはない。これを建築にたとえて今日の講義は展開した。建築にも重箱型と平皿型があるということである。
重箱建築とはその場所の目的とそのしつらえにある関数(function)関係があるものを指す。そしてその状態を機能的(functional)と呼ぶのである。一方そうした関数関係を排除し、場所に目的を与えない建築が平皿建築である。モダニズムは重箱で始まり、平皿になりポストモダニズムで平皿は攻撃されたが90年代平皿は復活そして現在はその合いの子が闊歩している状態である。
青木淳は遊び場を例に挙げ場所に目的を割り当てた遊び場を遊園地、割り当てない遊び場を原っぱと呼び原っぱの自由を称揚した。
さて今日のお題である。皆の周りにこうした場所と目的の緩い関係性を発見しその是非を論じて欲しい。

2007年11月16日

第五講お題

本日は建築(土木を含めた構築物)のサイズが及ぼす美的効果についてその歴史的変遷をご紹介した。私の専門ではない領域もあり耳学問の延長部分もあるがご容赦願いたい。
ところで大きいというものは確かに崇高という美的概念によって説明されるような効果はあるもののこのご時世人工物にそうした概念を当てはめてデザインしようなどというのはアナクロの謗りを免れない。しかし一方、大きいということは余剰(redundancy)という概念も含意する。それは今日の講義には出てこなかったが、建築においても余剰空間が建築のflexibilityを高めるなど、美的効果とは別の極めて機能的な見地から評価する人もいる。
そこで大きいことを評価し、現代において大きいに価値を与えてみよう。しかしそれはそもそも見当ハズレであると考える人はそう主張し、その理由を記し、むしろその対極である小さいを評価してくれも構わない。もちろんどのような領域についてでも結構である。

また他の大学の学生の意見も覗いてみよう。質問は同じにしてある。
http://ofda.jp/t_lecture/2007/rule/bbs/2007/05/post_5.html

2007年11月09日

第四講お題

さて今日から話は形式になる。形式とは形状と大きさから成立し、一回めの今日は形状の話である。これを「箱と袋」という対義語に言い換え説明した。そしてそこには二つの意味が込められており、一つは純粋に形状として「水平・垂直線⇔斜め線・曲線」という意味。もう一つは設計者にとって『アプリオリな(事前的に決まっている)形⇔アポステリオリ(事後的に決まる)な形」という意味である。もちろんアプリオリなものが必ずしも水平垂直とは限らないので二つの対義語は合同とは言えないが、建築でしかもモダニズムを対象にするとアプリオリなものは箱になることが多いので二つの意味をかぶせて説明した。
次にこの二つの意味の後者について少し考えてみたい。授業ではその部分をコルビュジェとロースの話で終わらせたが、それを発展的に解説してみよう。形をアプリオリに生み出すというのは建築の一つの理想形を模索する中から天啓の如く舞い降りてくるひらめきを形にするということである。こうした造形は理想の形象化である。一方袋建築とははこの対極であり、天から降ってきたものではなく、地上にある潜在的な何かを顕在化させることと言えよう。
さて現代的感覚からするとこの天から降ってきた理想の追求という思考は流行らない。あくまで使用者ありきという考え方が建築に限らず現代的な倫理であろう。しかし本当か?と少し疑ってみよう。物事には常に理想というものがあるはずである。理想なきところに向上はない。その意味で一概にアプリオリな理想を否定するわけにもいくまい。
前置きが長くなったが、今日のお題である。自らの問題意識(建築に関してでもそうではなくても結構)の中で箱的(理想的)な思考と袋的思考(現実的な問題解決の積み重ね)をどのように調停しているか?調停しないか?あるいはその片方に肩入れするか?例を挙げて述べていただきたい。

2007年11月02日

住宅設計のプロセスお題

本日は僕の住宅の作り方を少しお話しました。「ああこんな作り方もあるのか」と思ったことと思います。住宅の設計というのは公共の建物と少し違い、一般解ではなく特殊解です。つまり個人個人のためのオーダーメイドのスーツを作るようなものです。しかしとは言っても建築であり、それに出来たものはパブリックの中に現われるという意味では公共的でもあります。クライアントのエゴで出来るものでもありません。住宅も街の一部として街に奉仕しなければいけません。そこで今日の質問。雑誌で見た住宅でもいいし、近所の住宅でもかまいません。その住宅の何処かに公的な部分を発見して街にどう貢献しているかを記してください。

2007年10月26日

第三講お題

本日の講義はモダニズムの技術が建築を二つの対極的方向へ導いたことを説明した。それらはスケルトン化でありブラックボックス化である。そしてスケルトン化は必然的に構造や設備を露にする。その露にされることを含めてテクトニックという概念で21世紀の建築を語るケネスフランプトンの『テクトニックカルチャー』の論旨を概説した。更に私の考える未来の材料論からもテクトニック、スケルトンの概念が有力という価値付与を行なった。
そこで今日のお題である。スケルトンという概念を少し拡大解釈してみよう。建築に限らず、身の回りのモノ、コト(建築、プロダクト、音楽、文学、教育、経済その他)がスケルトン化(その構成が分かりやすくなること)することに現代的価値があるだろうか?スケルトンという言葉をいかように解釈(誤解)していただいても構わない。自由な想像力で自分の分野に引き込んでいただきスケルトン化による現代的価値を提示して欲しい。

因みにこの設問は前期の他大における質問と同じなのでそちらのコメントも覗いててみよう。
http://ofda.jp/t_lecture/2007/rule/bbs/2007/05/post_3.html

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