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2007年12月21日

第九講お題

本日のテーマは建築と敷地の馴染みである。馴染みということで言えば昔こんな経験があった。20年以上も前に、高松伸という建築家が織陣という名の小さなオフィスビルを作った。それは京都の町並みの中に突如現れた奇怪な建物だった。真っ赤なたまねぎのような屋根を冠した真っ黒い石の建物であった。その建物は京都の町並みを破壊する暴力とも言われたが、その建物の前に立った僕にはこの赤いたまねぎが先ほど潜り抜けてきた平安神宮の鳥居を思い出させ何かこの街の空気に溶け込んでいるような気になった。無理やりそう思ったのではない。とても自然な感じ方だったと思う。
一方世の中には景観問題なるものがある。ちょっと前には景観法などという法律もできた。その法律は地方行政やnpoなどにより地域に即した条例の作成を促すものでユニークであるとも思う。しかしそうは言っても条例を現実化するには一律な形態や色彩の規制は避けられない。そこにおいては先ほどの赤いたまねぎの様なものは先ず規制対象にならざるを得ないだろうと思う。
われわれはここで法律の作り方を云々することもできるが、それはさておき、町並みの類似性について比較的直感的な嗜好を問うてみたい。京都の町並みのような類似なものの集まりが好きか?東京のようなカオスが好きか?もちろん好き嫌いのレベルだからそれで終わっても構わないが、そこで踏ん張ってその理由を捏造して私を説得してみてほしい。

2007年12月15日

第八講お題

本日のお話は建物とそれ以外の物や場の関係を親父的(exclusive)、オフクロ的(inclusive)という言葉で説明した。そしてexclusiveな状態を作る建築の事例をみるとそこでの創造の原理としては1)プロポーション、2)象徴性、3)ミクロコスモスなどが見受けられた。一方現代建築はプロポーションなどと言うものに余りこだわらない。象徴性を形成するためのコンテクストを共有していない。閉じた箱の中でミクロコスモスを作る茶室のような発想は消滅し、開放的という言葉が標語のように連呼されている。
さて今日のお題である。「exclusiveな何か、inclusiveな何かを発見してそれらがその関係性を他と持つのはその対象がどのような原理によって成り立っているかを分析して欲しい。例を1つ挙げておこう。京都龍安寺の石庭。この庭石は大海に浮かぶ小島のように見立てられる。そしてその象徴性ゆえにこの庭はexclusiveなものと言えると思われる。このような調子でお願いしたい。

2007年12月08日

第七講お題

本日は古来建築の主題である全体と部分についてお話した。そして部分と全体の比例を基礎に作られた建築を人間建築と呼び、そうした関係性を捨象し部分の増殖に基づく建築を妖怪建築と規定しその流れを概観した。さて人間はものを構築する上であるいは思考をくみ上げていく上で全体性を無視することは不可能である。設計図に代表される全体性の見取り図は作らざるを得ない。一方でそうした全体性が必然的に導く抽象は様々な思考や造形の断片を喪失させる。そこで君たちの今回の製図あるいは自分で設計した何かを思い出してもらいたい。その設計において、君たちは全体と部分についてどう対処していたか。事前にそうした意識があったかどうかは問わない。事後的に見てどうだったか。そうした観点から自らの設計を評していただきたい。今回は文章を4段落で書き起承転結を明確にして書いて欲しい。

2007年12月03日

第6講お題

本日から話は関係の規則となる。ここには4つの規則がありその最初が重箱と平皿である。おせち料理のような重箱料理においては食物の種類とその入れるべき場所にルールがある。一方平皿の大皿料理ではそういうルールはない。これを建築にたとえて今日の講義は展開した。建築にも重箱型と平皿型があるということである。
重箱建築とはその場所の目的とそのしつらえにある関数(function)関係があるものを指す。そしてその状態を機能的(functional)と呼ぶのである。一方そうした関数関係を排除し、場所に目的を与えない建築が平皿建築である。モダニズムは重箱で始まり、平皿になりポストモダニズムで平皿は攻撃されたが90年代平皿は復活そして現在はその合いの子が闊歩している状態である。
青木淳は遊び場を例に挙げ場所に目的を割り当てた遊び場を遊園地、割り当てない遊び場を原っぱと呼び原っぱの自由を称揚した。
さて今日のお題である。皆の周りにこうした場所と目的の緩い関係性を発見しその是非を論じて欲しい。