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第九講お題

本日のテーマは建築と敷地の馴染みである。馴染みということで言えば昔こんな経験があった。20年以上も前に、高松伸という建築家が織陣という名の小さなオフィスビルを作った。それは京都の町並みの中に突如現れた奇怪な建物だった。真っ赤なたまねぎのような屋根を冠した真っ黒い石の建物であった。その建物は京都の町並みを破壊する暴力とも言われたが、その建物の前に立った僕にはこの赤いたまねぎが先ほど潜り抜けてきた平安神宮の鳥居を思い出させ何かこの街の空気に溶け込んでいるような気になった。無理やりそう思ったのではない。とても自然な感じ方だったと思う。
一方世の中には景観問題なるものがある。ちょっと前には景観法などという法律もできた。その法律は地方行政やnpoなどにより地域に即した条例の作成を促すものでユニークであるとも思う。しかしそうは言っても条例を現実化するには一律な形態や色彩の規制は避けられない。そこにおいては先ほどの赤いたまねぎの様なものは先ず規制対象にならざるを得ないだろうと思う。
われわれはここで法律の作り方を云々することもできるが、それはさておき、町並みの類似性について比較的直感的な嗜好を問うてみたい。京都の町並みのような類似なものの集まりが好きか?東京のようなカオスが好きか?もちろん好き嫌いのレベルだからそれで終わっても構わないが、そこで踏ん張ってその理由を捏造して私を説得してみてほしい。

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コメント

日本人は類似したものの中にいることを好む。
それは外人がはっきりYES・NOを言うが、日本人はあいまいに答える傾向が多いことからわかる。人の輪から外れるのが怖いからだ。
建築家と呼ばれる人たちはその輪から抜け出そうとしたり、刺激を与えようとしているのだと感じる。
その人たちが各々建てた『個』の建築の集合体が東京という都市を形成している。
しかし、そう言った『個』の建物が多くなりすぎたため、人と人とのつながりが希薄になってしまっていると感じる。
だから、僕は人とのつながりが深い京都のような類似した(下町のような)街並みのほうが好きだ。

直感的に、整えられているものや整理されているものは良いと感じる。

こんな例え方は少し妙だが、軍隊など究極の機能性を追及したものにはゆるぎない秩序が存在する。それぞれが得意分野や個性を持っており、それぞれが他のみんなのことを考え動く。

建物に関しても同じことが言えるのではないかな。機能は違えど周りのことを考えたら、共通性が生まれ、それが地域貢献になる。

今の京都がそうであるかは分からない、ただ外観を合わせているだけの可能性はある。ただ、取り敢えず、ごっちゃなものよりは秩序のあるものが好きだ。

私はごちゃごちゃした東京も整った京都もどちらも好きだ。整えられた町並みはそれぞれ独特の雰囲気や特徴があったりして美しいと思う。
一方で、これは私だけが思うことかもしれないが、東京のようにおびただしい数のビルが立ち並んでいるのを見るとなぜか私はエネルギーが沸いてきて元気になれる。
整った町並みは落ち着き、安らぎを与え、混沌とした町並みは私にエネルギーを与える。その正反対のどちらの町も私はそれぞれよいと思う。

東京と京都ではどちらかというと東京が好きだ。東京には超高層なビルがいくつも立ち並び見るものを圧倒している。東京タワー、六本木ヒルズなどきれいな建物が多く見られる。しかしそれと同じくらい汚い部分も多いと思う。ごみだらけの街というイメージもあるし実際に汚い場所も多いと思う。しかしそれも含めて東京というものだと思う。東京のきれいで素晴らしい建物やイルミネーションの数々、しかし一方で暗い路地や汚い場所が広がっている。僕はそれらのギャップが好きだ。正と負の景観を東京は持っていると思う。

京都の方が好きです。
働く街である東京はなぜだか違和感があります。高層ビル群は一見すごく、感動をするのですが、落ち着きません。それに比べ京都はとても落ち着けます。緑の多い環境、歴史的な街並みはすごく落ち着きます。長野育ちの僕には、東京のような街は合わないのかもしれません。なにより理由どうのこうのでなく中学生の頃行って、見た、京都の街並みがとても素晴らしく好きだからです。

類似なものの集まりは町並み全体を一つとして見ることに楽しみがあり、カオスには一つ一つの建物を見る楽しみがあると思います。実際に、歩いてみて楽しいと思うのはおそらく、カオスだと思います。それは、ずっと同じ感じの建物が続いているとちょっとだけ見て、こんな感じの建物がたくさん並んでいるんだな~と思うけれども、カオスは一つ一つが違うので、全部見てみないとどんな建物どこに建っているのかがわからないので、長い時間見ていて飽きないからです。要するに、カオスのほうが見所が多いような気がするからです。

僕は直感的に京都の方が好きだ。類似した町並みは町全体で独特な雰囲気を作り、まるでそれに包まれたような感覚を得る。町並みを作りだす要素は、遠くから見れば視覚に頼られると思うが、その町に足を踏み入れた瞬間、人と人との関係など、様々な感覚を刺激するものがある。高松伸の例は、玉ねぎの赤から想起される鳥居のように、視覚を経由した間接的な要素とも取れるし、その土地の部分的な要素のみを取り入れたとも思える。そういった直接的な要素に頼らないところが、マグリットの絵のみたいで面白いと思った。
また、この前須坂の敷地見学に行った時、外観は古民家風なのに、中身がほとんど現代風な家があった。外から見えた家の中は、フローリングに白い壁のような、今時ポピュラーな感じのもので、バリアフリーにもなっていた。見た目だけなら、古民家はお年寄りに似合うが、やはり生活するには不便なのだろう。しかし、外観だけか、と残念な気持ちになった。このように町並みが統一されていると、土地との関係が希薄な生活空間が見えた時に、急に色気が無くなるということもある。単純に外観だけ土地に合わせてもダメなんだなと思った。
今の法律は外観のみ重視しすぎだと思う。無理やり土地に合わせるぐらいなら、普通の建物を建てた方がいい。

京都の町並みのような類似なものの集まりのほうが好きです。

東京のようなカオスな街は様々な建物があり、見るのは楽しいかもしれないが、雑多なまちなみを一つ一つ読み取っていくのは難しいし、大変だし、疲れる。東京はたまに遊びに行くのはいいが、住むのは絶対に嫌だ。

京都のように整えられた町並みのほうが落ちつくし、安心感があり、直感的にいいと思った。

僕はきっと京都の町並みのような類似性を好んでいるのだと思う。その理由の大部分を占めているのは類似性から来る安定感だろう。京都の町並みという例えが少し郷愁を感じさせるが、これも安定感という理由に違う側面から意味を付加しているように感じる。
一方で、東京のような混沌の中には常に不安がつきまとってくるような印象があるし、昔の自分は確かにそうだった。僕のような人間はその不安感によって混乱し、判断や行動が単調になる。これは嫌だ。ただ、混沌の中ではマンネリ化した日常からの脱却が行われると思う。日々新たなものが生まれ出ては、消えていく。この変化(刺激)には憧憬をいだく。だから、一概に混沌が嫌いとは言い切れない。
基本的なスタンスとしては類似性を好んでいるけど、混沌には憧れを感じている。たまには東京に行きたいな、と感じるように。刺激は欲しいけど、安定感あってのそれということだ。

僕は京都の町並みより東京のビル郡のほうが好きだ。東京というのは日本の中の中心的な都市で、今までに見たことのないような建物がたくさんある。斬新なデザインのものが多い。そんな建物を見て僕たちのような学生や建築家を志す人たちは建築関係の仕事にますます憧れや向上心を抱いていくのだと思う。そんな建築家たちの作品展のような東京に僕は魅かれる。逆に京都のような町並みは類似なものの集まりで一つ一つの個性が無いように思えて建築的な面白さを感じない(それが個性なのかもしれないが)。しかし、観光という立場で京都の町全体をみるとどこか懐かしい気持ちになる。

京都はとても好きですが、町並みとしては東京のほうが好きです。
たしかに京都の町並みは秩序があり美しいと思いますが、僕は、東京のように様々な個性がぶつかりあって形成されている町並みのほうがおもしろくて好きです。

京都の街並みは穏やかで安らぎを与えてくれる。一方東京は常に新しくて刺激的な街というイメージがある。
私は田舎育ちなので小さいときからずっと都会にあこがれていた。流行の発信源である東京はかっこいいと思い込んでいた。
しかし夏休みに東京に行ったとき、とても不安を感じた。高さも様式もごっちゃでところせましと建っていて、それが東京という都市を形成している。私はそれに飲み込まれそうでなんだか怖くなった。
京都に行くと、見知らぬ地なのにそういった不安は全く感じなかった。それは都会にあこがれていても心の奥で安らぎを求めているからかもしれない。
だから私は無理して背伸びしてしまう東京よりも気の抜ける京都の街並みの方が好きだ。

自分は京都の方が好きです。
東京出身の先輩は立ち並ぶビル群が迎え入れてくれて、帰ってきたと思うそうですが余所者の自分には拒否されているように思えます。逆に京都の町並みは余所者の自分でも迎え入れてくれているような気がして暖かさを感じます。また、路地裏などで、そこを抜ければ何かありそうなわくわく感もあり非常に好感が持てます。

私はどちらも好きである。
東京に行くと、わくわくし、ドキドキしてくる。上に上に伸びているような街並みを見ていると、久田さんが言うように元気が出てくる。背筋を伸ばして歩きたくなるのである。統一感はないが、とことんごちゃごちゃでバラバラなので、逆にまとまりができていると思う。しかし、東京の街並みが日本中にあったら息が詰まってしまうだろう。東京という日本のほんの一部分にあるから、うまく成り立っているのだと思う。
また、京都ではおばあちゃんの家にいるような落ち着いた気分になる。そっくりな家が並んでいる。統一されている。低くて平たいイメージがある。誰でも訪れた人を包み込んでくれるような、ふと一休みしたいときに行きたくなる町だと思う。落ち着いて暮らすにはいい町かもしれないが、毎日毎日そんな空間で生きていたら気が抜けすぎてしまう気がする。
東京も京都もそれぞれの雰囲気を持っていて、それぞれの方法でまとまっているので、私はどっちのほうががいいと決めることができない。

直感的にといったら京都のほうが好きである。類似な建物が集まった京都は美しく心が落ち着き、自分がその場に溶け込んだ感じがする。
東京のような巨大なビルが建ち並んだところに居ると京都とは違って孤独感を与えられているような感じがして落ち着かず、マイナスイメージが強い。でも東京に出て街の中を歩いていると、こっちのほうが好きかもしれないと思うことも偶にある。自分の場合、その町に対する好き嫌いは、その時の心情によって左右されることが多いのかもしれない。

上下色や柄の違う服を着ている人がいる。私はその統一感のない服のセンスが好きではない。それより、色は同系色で柄もシンプルな方が好きだ。しかし前者の服を一つ一つ見ると、それぞれの良さが見えてくる時がある。
これを建築に置き換えると、前者が東京で後者が京都である。京都のような類似なものの集まりも美しいが、東京のように一つ一つに個性のある建物が集まった町並みにも魅力を感じる。

個人的には東京のようなカオスのほうが好きです。
人でたとえてみると、あらゆる事を一般的にこなしたり、一般的な反応を示す人、環境にあわせて「うんうん」といっている人は、周りに合わせているのだから一緒に居てもちろん嫌な気はしない。が人の興味はあまり引かないように思う。
逆に周りとはなにか違った個性を持っているひとは魅力的であると思う。魅力的な人と一緒にいると楽しいと思う。
建築においても個性のある建物達を見ていると面白いと思うから、僕は東京てきなカオスの方が好きである。
しかし実際人と人がつきあっていくうえでは、どちらのタイプの人も必要であると思う。前者だけが集まってもつまらないし、後者だけが集まってもうるさい。両者が混在して楽しい良いグループができるのだと思う。
町並みにおいてもある統一性をもったものと個性をもったものとの程よいバランスというものがあるのではないがと思う。

東京と京都を都市として相互に考えたとき、私はどちらとも決めかねてしまう。京都は落ち着くという既成概念から京都は落ち着くと考えてしまっているのではないか私は考える。
実際、京都の整然とした町並みはどこか寂しさを持っていると私はかんがえる。逆に東京は、華やかで、輝いているという既成概念があると私は思う。しかし、そこには華やかな反面、寂しさが見え隠れする。東京の空は、人を寂しくさせるという言葉をどこかで聴いたことがあるのだが、去年、東京に1人で行ってみて、その意味がわかった気がした。
結局、どちらも自分の住んでいる町並みとはかけ離れていて、好きにはなれないと私は感じた。

京都は一度だけしか行ったことはないが、テレビなどで見る風景にはとても風情があり日本の伝統というものを感じる。そんな趣のある京都もいいが、田舎で暮らしてきた僕にとって東京のような都会というものには魅力があり憧れる。東京には高層ビルはもちろん日本銀行本店や国際子ども図書館や国立代々木競技場など様々な建築があり、インパクトの大きい建物がたくさんある。それらは類似することなくそれぞれが主役となっている。一見これはバランスの取れていないように思えるが、東京のような全国または世界からいろんな人々が集結する大都会だからこそあり得る格好良さであると思う。

僕は京都の方が好きだ。
今年の夏に東京へ行ったが、ひとつひとつ建物をみると、迫力があり、デザインもおもしろく、見ているだけで、楽しかった。しかし、それが集団で存在すると、孤独、恐怖を感じた。
それに対し、京都の建物は集団で存在することにより、さらなる魅力を発揮すると思うので、京都、東京の集団レベルで考えると、京都の方が好きだ。

京都は好きだ。
どこも同じような空気を感じる。それが気持ちいい。
東京も嫌いではない。が
キレイな所とキタナイ所、この二面性が良いという意見もあるが、僕はそれが好きになれない。

僕は東京のカオスの方が好きだ。
キレイな街並みのところにいるのは確かに気持ちのいいことかもしれない。しかし、実際にきれいで整然としたものが建ち並ぶ空間にポツリと自分が立ったとき、少し違和感を感じてしまう。それよりも、東京のカオスのように無秩序な空間にいる方が自然な気がする。実際、きれいに整頓されている部屋に入ったときよりも、混然とした部屋に入ったときのほうが自然さを感じる。
秩序的なものの中に感じる不自然さよりも、無秩序的なものの中の自然さが僕は好きです。

僕はなんとなく京都の方が好きだ。

夏休みに建物の見学に東京に行った。一人で行ったのは初めてで、行くこと自体久しぶりだったので、当然人の多さに驚いたが、いろんな建物が共存していることにも驚いた。行ったのは一日なので、ごく一部しか見れてないが、普段長野に住んでいて、実家も静岡の田舎で、単純に慣れてないということもあるが、ずっときょろきょろしてた。にぎやかで楽しいけど落ち着かないと思った。また、それぞれの建物が競い合っているという気もした。
一方京都は、碁盤の目状に同じような建物が並んでいて落ち着いた雰囲気があるというイメージで、互いに尊重し合っている気がする。
つまり、普段生活するには京都のようなところがいいが、たまに行くには東京もいいのだと思った。

大人やお年寄は京都のような類似物が集まり安心感を与える町並みを好み、こどもや若者東京のようなカオスの町並みを好むといったイメージが私にはある。だからどっちが好きかと聞かれれば今はまだ東京のようなカオスの町並みと答える。なぜか・・・私はまだ子供でいたいのかもしれない。安心感より好奇心を書きたてられるものほうがいっそう求めたい。もちろんちゃんとした理由はある。やはり前者は退屈だと感じてしまうのだ。秩序のある町並みは安心感とともに退屈感を与える。後者は好奇心とともに不安感を与えると思う。しかし私は人生で退屈ほど怖いものはないと思っている。だから好むなら東京のようなカオス。そしてもちろん私の家の中は後者であるということも。

統一された街並みが基本としてあることに魅力があると思います。
京都は歴史があって美しく、逆に歴史を感じられないようなコンクリート、アスファルト街でも今回お話に出てきたダーティリアリズムによって場所性を取り戻すことができる。
ルーブル美術館のガラスのピラミッドは、歴史あるパリの街並み、建築物に囲まれているからこそ、意味を強く持つのだと思います。

私は、京都のような類似したものの集まりのほうが好きです。
東京のような高いビルが建ち並ぶところはいつも上を見ながら歩かないといけないような気がして、なんだか歩いていても疲れてしまいます。それに、個性的で興味を引くような建物がいっぱいありすぎて見歩いても一気には消化しきれない気がします。
だから、京都のような類似した町並みのほうが歩いていて街全体を捉えやすくて好きです。

僕は東京のほうが好きだ。それはカオスで美しくないがその進化には興味がもてる。東京オリンピック以降すさまじい勢いで発展・進化をしているがそれを今でもなお持続しているような気がする。実際、銀座や表参道は有名建築家の展覧会の場になっていてカオスな東京の代表的な空間であるように思える。またその様が非常におもしろい。
一方、京都の場合は景観法などの規制によって一律の町並みにしようとしているが果たしてそのようなことができているのか?と疑問に思うことがある。例えば京都駅はどうだろう?と思う。京都駅に着いた瞬間のあのインパクトとギャップはすさまじいものを感じる。そういう意味で一律の仕方が生温くておもしろくない。また同じようなことが奈良駅でも起きている。奈良駅の場合は前の駅舎を移築して保存している。その横に新駅が完成する予定だがどのようなものができるかは非常に興味深い。

東京の方が好きだ。
先日東京に行ってきたが改めてそう思った。あんなに最先端で、魅力的で、イカレた街はそうないと思う。
京都も以前行ったが、きれいに路地が整理されていて非常に分かり易い。しかし、いまいち面白くない。
自分の性格がきちんとしているせいか、東京のような土地さえあれば建物を建てる、ゴミゴミした街に憧れを抱いているのかもしれない。

私はどちらかというと京都のような類似なものの集まりの方が好きだ。カオスなものはそれぞれに個性があり刺激的で見ていて楽しいだろうし、憧れもある。しかし、どうもおびただしい建物と人が入り乱れている空間は好かない。たまにいく分にはほどよい刺激でいいが、ずっとその空間にい続けるのは耐え難い。それよりも京都のような類似なものが集まった場所は落ち着くし、整頓されている場所の方が気持ちがいい。

東京の方が好きです。
東京の建物は個々が主張しているが決して町並みのことを考えていないわけではないので、それぞれの建物がいろいろ考えられて建てられている。それを自分で考えるのも楽しいし、学ぶところが多いので魅力的です。京都の町並みはどちらかというとすきではある。しかし単調で建てるときには様々な制約を受けてしまう。そのような建築の自由さの面でも東京の方が魅力的に思った。

今年の夏、京都に足を運んだ時に友達にすすめられ高松伸さんの作品を幾つか見た。今までに見たことのないような外観に驚きはしたが、勿論先生の様な考え方はできず、周りの建物に溶け込んでいるとは思わなかった。それに主張しすぎて少し嫌な気さえした。直感的にこう思ったのだから自分は京都の町並みのような類似なものの集まりの方が好きな様である。
最近、ハウスメーカーが作ったような住宅が幾つも並んでいるのをよく目にする。確かに似たような建物が並んでいるのに、そこに美しさや好きになる要素は全くない。このような住宅と京都の町並みには、類似なものの集まりという点において共通点があるものの、その質においては少し違うような気がする。京都の町並みにおいては、形が類似している以上に外観に使われている素材が類似していると思う。それは瓦であったり木材であったり色であったり。一方でここでいう住宅の集まりには形だけが異常に類似しすぎている。全く同じものが並んでいるくらいだ。しかし外観の色は、その中で個性を出すためか変わった色が多い。オレンジであったり黄色であったり緑であったり。
よって京都の町並みに好感が持てるのはその外観の形の類似性にあるのではなく外観の質感にあるのでないかと思う。

東京はせわしなく、最先端で魅惑の街。京都は落ち着いていて安心感、郷愁漂う雰囲気の街。というイメージが強いです。
どちらが好きかと聞かれたらどちらでもなく、その中間の中途半端に発展した街です。自分はそんな環境に近いところで育ちました。

京都の類似性、東京のカオス・・・確かに種類は違うけど、どちらも捨てがたく魅力的なものがあるし、それに興味や好感を抱きます。でもなぜそのような感じになるのかといったら、それが自分の身近にない環境だからだと思います。身近にないからこそ、あまり知っていないからこそ、そこに興味や自分なりのイメージが出来上がるんだと考えています。そして、そういった雰囲気を持ち合わせた地域に住んでいる人はそこに興味とかは抱かないと思います。なぜなら以前から住んでいて慣れが出て来ているんだと思います。そして僕はその『慣れ』が怖いのです。慣れは感覚を麻痺させて、堕落するからです。なのでそのどちらでもなく少し移動をすればどちらも味わえる。そんな場所がイイです。

京都が好き。京都を見ていると日本人だと思うことが色々とある。よく外国人は、日本伝統のことがいろいろとあるのに、それに対して、肝心な日本人がそのことに詳しくないのはもったいないと言う。
 確かに、だと思う。わび、さびという言葉が昔からあるけど、今の日本人は、どれだけわかるだろうか?そんな景観が京都にはある。
 なにか、最近ある作家が紅白のストライプの家を建てようとしてもめているらしい。確かに、周り住人の気持ちもわからないでもない。

ヨーロッパの街並みに憧れる。見事に統一された建物たちと、程良く古い感じが大好きである。実際行ってみたパリの街並みも素晴らしかった。私の生まれ育った京都の街も、町屋が立ち並ぶ地域は類似的で美しいし、小さいころからなんとなく良いなぁと思っていた。(町屋が立ち並ぶ地域がかなり今では少なくて悲しい)しかし、類似的なもののみが無表情に並ぶだけが素晴らしいのではないと、ルーブル美術館のピラミッドを見て感じた。現代的なガラスのピラミッドと、宮殿のような建物。全くマテリアルも違えば、色彩も違う。一見ばらばらのように見える両者が、私にはすごく合っているように思えた。この時、類似性のある中に、少し表情の違うものが入り込むことで、ただ整然と並んでいたものが映えて見える、という事がありえるのかな、と思った。

建築を勉強する前は京都などの類似的で統一感のある町並みが好きだったが、いま少しづつ建築の勉強をし始めて、東京のようなカオスな建物群への魅力も感じ始めた。
現代の建築は、昔に比べて建築への付加価値というか、求められる条件のレベルが高くなってきていている。それを満たすように建築が建てられているのだが、その具体的な成果は一般の人々にはなかなか分からないのかもしれない。
正直、建築家と一般の市民の間に価値観の相違というか、多少なりとも温度差を感じる。これはそもそも日本人の持っている感性が低いのか、それとも建築家のエゴが過ぎているのかは分からないが、この差をうめることが建築家としてのひとつの命題のような気がする

東京のようなカオスには自由が感じられる。京都のような類似なものには統一性が。
東京のようなカオスに建物を建てるより、京都のような類似なものの集まりがあるところに建物を建てることは勇気がいると思う。京都駅はそのいい例じゃないかな。

僕は自由なカオスが面白いと思う。

東京のように自由に建てたい建物をダイナミックに建てられる場所も好きだけど、私はどちらかというと京都のような統一感のある町並みの方が好きです。おびただしい数のビルが立ち並ぶところに一人でいると、何かに押しつぶされそうになるような圧迫感がある。おまけに東京はプラスおびただしい数の人間も入り乱れている。京都は人も町並みもどこか統一的で安心もあるし、その分制限もある。建てられる建物にもいろんな制限があるかもしれないけど、決められた範囲のなかでどれだけ遊びを含んだ建物を建てられるか考えるのも楽しいと思う。

僕はどちらかといえば東京のようなカオスのが好きである。
今年の夏京都に行って来たのですが、京都は確かに街並みに統一性があってうつくしく思える。
しかし統一というのは並んでいるからきれいなものでありひとつの建築物としてうつくしいといえるのかと思います。ひとつの建物という面では東京のが優れた建物が多くあると感じられる。
まわりの景観を考えるのも大事ではあると思うが、個性が強く、なおもまわりとどこか共通したものが感覚的に見いだせるような建築物がすごいと思う。

京都か東京かと問われたら、私は京都の方がすきだ。類似なものの集まりがただすきなのではなく、その類似に「生」を感じるからすきなのだと思う。そこに住む人々、つまりその土地にいちばん近い人々が、その土地にあった類似を生み出してきた、それを感じられる。また大きさもひとが作る大きさであるし。
自分はどうやらさみしがりな面があるらしく、まちにも生を求めてしまうらしい。

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