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第8講お題

今日の話は先天性と後天性、建築家は一体どこまでの責任を持って建築を作ることができるのだろうか?つまりは先天的にどこまでの遺伝子を建築に組み込んでおいてよいのだろうか?これは考え始めると迷宮入りである。そこで今日のお題だが、君が見た経験した建築の中で、既に設計当初の遺伝子は意味を持たないと思ったものをあげてみよう。そしてその遺伝子は何に変えたらその建築はよりよくなるだろうか?その理由とともに答えて欲しい。

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坂牛研究室4年の松田大作です。授業の掲示板ですが、ちょっとお知らせです。
修士設計及び卒業設計のお手伝いさんを募集していたのですが、去年より少ないです。募集の紙を持っている人は、なるべく全員だすようにして下さい。バイトや授業には影響しない程度のお手伝いだと思います。あと、模型は、確実にうまくなりますので。よろしくお願いします。

05t3055f 高木美帆
雪も降って白馬や大町方面に行く人も多いのではないでしょうか。19号から白馬に抜けるオリンピック道路の途中に水色のような薄い緑のような色の建物が建っている。それは旧長野県知事公舎。つまり県知事のために作られた住宅である。なぜそんなものがそんな田舎にあるかというと、前知事の田中康夫が「いらないから無くしちゃいましょうよ」と言い出したため、二代(?)前の県知事を輩出している小川村が買い取ったのである。

この公舎は現在地にどうもなじまない。山を背に幹線道路を目の前にして佇むその姿は立派な造りでありながら、なぜか不安定であり安っぽい。
それは、設計の段階でこの建築はあんなところに移築されることを想定していないからではないか。あの建築はもっと人の気配があるところで、周りにも住宅があってそれらとともに高級住宅街の一部としてあるはずだったのではないのか。
もちろん人は住んでいない。博物館のような展示場として使われている。

建築の遺伝子は用途の他にも周りの環境によって変わってくる。熱帯の遺伝子を持った動物が、極地方で生きていけないように、町の遺伝子を持った建築は田舎では生きていけないのではないか。さらに住宅として作られたものは人が住まないとその姿は廃れていく。手入れをされていても人の気配のしない住宅は死んでいる。

では、あの可哀想な知事公舎はどうすればいいか。場所の違和感と人のすまない住宅であるという2つの違和感を解消しなければならない。いっそのこと今までの遺伝子を捨てずに、小川村の中心部に移築して、村長か西沢権一郎の子孫が住んでみたらいいかもしれない。

小学校の遊具

子供はダメといわれることはやりたがる。昔、僕はそんな小学生だった。廊下は走るし、教室でボール遊びもした。また、窓のアルミサッシの溝にビー玉をおいてビー玉のハジき合いなんていう変わったこともした。今思いかえせば、子供のころの僕は、変わったことや新しいことに興味を持っては飽き、興味を持っては飽きの繰り返しだったような気がする。ならば、いろんな遊び方や使い方を考えさせるようなものを与えてみたらどうだろうか。例えば、いろんな形や大きさのものを重ねたりつなぎ合わせたりしてできた何かを置くとしよう。それは、座って会話を楽しんだり読書できるベンチ代わりになるかもしれないし、アスレチックのような遊具になるかもしれない。子供の感じた通りに遊んで使ってもらうような空間である。そうすれば大人が組み込んだDNAは子供たちの創造力によって驚くようなDNAに生まれかわるかもしれない。

ランドセル(建築かどうか分かりませんが)。
小学1年生が持つにしては大きすぎるように思えるかばん。ランドセルが歩いているとよく言われたものです。壊れないように丈夫な素材でつくられ、本がたくさん入るよう設計された四角い箱。しかし、これを背負って喜んでいたのは初めだけだった。私だけでなく、ほとんどの人がそうだったと思います。あんなに重くて、入れるものもないのに無駄にポケットがたくさんついていて、余計に重くしているように思える。そして、小学5年生頃のなると体も大きくなり、体型にミスマッチ。男の子はランドセルが背負えなくなる子も出てくるだろう。教科書もいわゆる置き勉によって机に入れっぱなしになり、ランドセルの中はスカスカ。ようするに、持つ意味がない。生徒みんなに同じもの持たせたいなら、もっと軽い素材の、形は箱的でなく袋的なものにすれば、使いやすくなると思いました。

富士急ハイランドにある戦慄迷宮(今の超・戦慄迷宮の前のもの)の建物は元は巨大な休憩所であった。保護者などはそこで休憩し、子供たちは遊んでくる。その中にはおみやげ売り場やゲームコーナーも存在していた。そして、必要がなかったためかその建物をフルに活用して戦慄迷宮が作られた。老朽化も進んでいたため、お化け屋敷にはぴったりであった。初めはみんなが休めるように、楽しめるように作られた建物であったはずなのに、いつのまにか皆が怖がる場所、リラックスするどころか逆にハラハラする場所になってしまった。しかし、ある意味とても楽しめる建物であるには違いないだろう。

岐阜県高山市にある吉島家住宅。
この家は明治40年に建てられ、現在は国の重要文化財に指定されている。吉島家は両替商と造り酒屋として手広く事業を行ってきた豪商である。飛騨地方の代表的な町屋建築として知られている。玄関入ってすぐの土間は大きいうえに吹き抜けになっていて、その空間のでかさに圧倒された。今まで見てきた町屋建築の中で一番金持ちの家だな、というのが最初の印象だった。部屋数も多いうえに部屋の一つ一つが広くて開放感があり、その部屋の配置の仕方も好きだった。庭も豪華で、見学している間中すごい金持ちの家だなと感心ばかりしていた。
この家はもちろん今は誰も住んでいない。入場料を払えば誰でも見学することができる。この家はすでに飛騨地方の町屋建築様式を保存し、一般の人に開放することでそれを伝えていくための存在というDNAが組み込まれていると思う。そして私は、それが一番いいDNAだと思う。なぜなら、開放してくれなかったら、かなり自分中心に考えているが、私はあんなに広い土間をみて感動することもなかった。もうひとつのDNAとして井戸の回りの空間をギャラリーとして使っていた。これはいいのかわからない。別に必要ないとも思うが、それがきっかけで吉島家を訪れる人が増えるのなら,それもいいのかもしれない。

遺伝子は受け継がれる。親から子へ、さらに細胞から細胞へ…と、遺伝子と少しは形をかえながらも連綿と次世代へと引き継がれる。クライアントから設計者へ、設計者から施工者へ、施工者から利用者へ…と、このように見るともともとの遺伝子を大きく組みかえるのは利用者であることがわかる。

そこで東京タワーをあげる。機能として最も重要な東京タワーへの目的は電波塔である。電波塔という目的いがいのもので展望台や、レストランがはいるスペースを作るという設計者の遺伝子は当初からあったようだ。しかし今はイルミネーションをして東京の夜空を彩ったり、多くのイベントをしたりしています。このようにみるとほとんどの人が電波塔ということを認識してはいない。電波塔としての役割をすっかりとなくしてしまうことが今おきている。地上デジタル放送の開始、つまり新東京タワーの建設である。こうすると東京タワーは電波塔という遺伝子を失ってしまう、さらに新東京タワーができることで東京タワーの利用者はいっきに減り最初の遺伝子はかなり弱くなってしまう。この問題はどうしたらいいのか?一番いいと思うのは、新東京タワーを作るのではなく電波塔として認識される東京タワーにしたい。遺伝子をくみこむのではなくおおもとに戻したいと思う。がこれは設計当初の遺伝子から変わっていないということで次に僕の遺伝子をくみこもうと思う。

・ 東京タワーとはどういう場所か?
日本中から、世界中から人が集まる場所であり、今、話題の本や映画、ドラマからもわかるように多くの人が東京タワーに様々の思い入れがあることがわかる。思い出の場所である。最後に電波を送り続けてきたということからメディアの場所でもある。

・導入部分を考えると
自分の遺伝子を組み込むが、遺伝子はつねに利用者によってくみかえられる。利用者がつくっていくことができる空間が必要である。


このことから自分は写真が密接み関係してあるように思う。そこで写真展をしたり、イベント時には来訪者の写真をとったりして、写真展の一部にはその写真を掲載する。利用者(来訪者、出展者、企画者など)がつくっていく写真に関する総合施設にしたいと思いました。

自分が今までに体験した、遺伝子を失った建築は、空間色の講義でも挙げたフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルを挙げる。帝国ホテルは設計当初では、名前の通り国際的なホテルとして建てられた。しかし昭和42年に解体され、中央玄関の部分のみが明治村に移築された。中央玄関部分のみが移築されたところでホテルとしての遺伝子は失っている。現在では1階はロビー、ラウンジ等が公開されているだけで、見学するためだけのものとなっている。2階では軽食がとれる喫茶店になっている。自分はこの1階のロビーやラウンジの部分を音楽やダンスなどが行えるステージ的な機能を持たせればこの帝国ホテルはよりよくなると思った。現在ではこの帝国ホテルに訪れるほとんどの人が建築や歴史に興味を持っている人なので、音楽やダンスなどのイベントが行われれば一般の人も立ち寄り、帝国ホテルの良さに触れられると思った。また、ロビーの中央には大きな吹き抜けがあるので、2階で軽食を食べながら鑑賞ができ、時間を忘れるような空間ができると感じた。

僕が設計当初の遺伝子を失ってしまったと思う建築物は、僕の実家の家である。どうして僕の実家が遺伝子を失ってしまっていると思うかというと、僕の実家の玄関は鍵を失くしてしまってから誰も買い換えようとしないので僕の家族は基本的に裏口から出入りしているのである。さらに近所の人や僕の友達は基本的にリビングのところに訪ねにくるのである。僕がとても小さなときからそういった習慣ができていたので、特に違和感を感じていませんでした。今考えると、僕の実家の玄関は設計当初の遺伝子を失っているのだと思いました。

僕が設計当初の遺伝子を失ってしまったと思う建築物は、僕の実家の家である。どうして僕の実家が遺伝子を失ってしまっていると思うかというと、僕の実家の玄関は鍵を失くしてしまってから誰も買い換えようとしないので僕の家族は基本的に裏口から出入りしているのである。さらに近所の人や僕の友達は基本的にリビングのところに訪ねにくるのである。僕がとても小さなときからそういった習慣ができていたので、特に違和感を感じていませんでした。今考えると、僕の実家の玄関は設計当初の遺伝子を失っているのだと思いました。

僕の地元は名古屋なのですが、名古屋駅の近くには名古屋環状線という高速道路が通っています。高速道路の幅が広いため、その下には大きなスペースができています。しかも高速道路が屋根の代わりになって、雨をしのぐこともできるため、公園や広場になっているところもあります。本来公園や広場と言うのは、子供達が自由に遊べるよう計画されたスペースであるはずなのですが、現在そこにはホームレスが住んでいて、ちょっと異様な空気が漂っています。とても子供達が遊べるような環境ではなく、むしろちょっと近づきがたい場所になっていて、公園の役割をまったく果たしていません。もう少しこの場所を公園として活かす方法として、せめてホームレスのスペースは確保しつつ、子供達にも使えるスペースを別に設け、誰にでも開けた場所として計画することで本来の公園の機能も活きてくると思います。

05T3009B 浦嶋潤昇

遺伝子を持っていない建築とは何かを考えた時、私は海辺や公園の砂場でよく作る「砂山」であると考えた。
砂山を作る時、人は何を思って作るだろうか。まずは崩れないように作ることだろう。だれもが思いつかないものを作ろうとするだろう。それをいつまでも残しておきたいよいものとするだろう。

しかし、それはほとんど不可能である。

なぜなら、波は常に打っているし、天候も晴ればかりではない。崩れる時はすぐにくる。
遺伝子を残す間もない。というか残す意味もない。

果たしてすべてのことがそうなのかというとそうではない。

そもそも砂という素材が建築にするには無意味であると考える。唯一残せるものは何かといえば素材やものというよりそれを作る想像力だと思う。

想像の力はそのとき「砂山だからもういいか」とその場だけのものになっているに違いない。

その想像をほかの事に向けれればきっとよりよい建築になることだろう。

  僕は、断言するのは少し早いかと思われるが、長野駅の北にあるTOIGOを挙げる。
 自分は、その中の某テナントで働いているのだが、ここの再開発事業としての建築は失敗だと思う。
 再開発という意図から‘活気’‘賑わい’という言葉を思い浮かべるのだけれども、その発想とはほど遠い。まず何よりも人が来ない。開放を意図したであろうポケットパークでは閑古鳥が鳴く。今の時期、せっかくのイルミネーションがもの悲しい。
 テレビ局が組み込まれ、善光寺客の通り道であることから、多くの通行人が予想されるのだが、現実、テレビ局といっても一会社であって訪れる理由にならないし、善光寺客は、駅前からの百円バスに乗ってしまうため、通らない。そして、車社会の長野県であるのに、駐車場が無いということが一番の原因と思われる。正確に言うと無いのではなく、どう考えても煩わしい場所にある。
 計画の意図は良いものを感じる、のだけれども、現実はそんなに甘くない。

 テレビ局が組み込まれているゆえ、知名度が高いのを活かしての開発が望まれると思う。遺伝子を何に変えるか、人を受け入れる空間かつ建築が提供されているけれども、長野県の人はそんなものを求めてはいない。人を流す、人と交わる、空間かつ建築に変えていって欲しい。寒い信州、車社会であるがゆえ、本当に魅力ある建築でないと商業建築では人が訪れない。

 設計者の意図は大切であるけれども、理想と現実と社会、それら全てを思案しなければいけないということを感じる。

 あくまで一学生の生意気で主観的な意見であり、まだ竣工されて間もないゆえ、今後の展望に期待したい。

僕は今回の質問に「エスカレーター」をあげます。
僕はエスカレーターに乗るとき左側に立って乗り、右側をあけておきます。みなさんもそうであると思います。
昔テレビで見たのですが、2人乗り用のエスカレーターで左側もしくは右側だけをあけて乗るというのは間違いだそうです。長い間どちらかに荷重がかかっている状態にあると故障の原因になるそうです。でもたしかに急いでいる人を通してあげるために開けておくのはマナーであると思いますが、エスカレーターを考えた人は1乗り用、2人乗り用、いずれにしても乗る人がエスカレーターの真ん中に乗ることを前提として設計したそうです。
つまり設計者がはじめに考えていた「乗る人が真ん中に乗る」という前提(設計当初の遺伝子)は今では人々のマナーによって意味を持っていないといえると思います。
そしてどうしたらより良くなるか。これについては設計する段階で人があけて乗らないほうに、より荷重がかかるという事を前提に設計すればいいと思います。

自分が今までに経験した建築で、設計当初の遺伝子が意味を持たないと感じた建築は、京都の中京区三条通にある京都府京都文化博物館別館です。
ここには今年の夏に訪れました。この建物は元々旧日本銀行京都支店に使われていたそうです。確かに、銀行建築を感じさせる堅さや、重厚感がありました。今は博物館として(自分が行ったときは何も展示されておらず、吹き抜けの空間に椅子がたくさん置かれているだけでしたが)使われています。銀行として使われたと感じられる重厚感は今も感じられますが、それがあの規模の博物館の中に生きているとはあまり思えませんでした。
自分はこの建物をレストランとして利用したらよりこの建物が生きてくるんじゃないかと思う。あの建築のもつ装飾や重厚感がレストランに合うかどうかは正直自信がないけど、ふと思ったのがレストランだった。隣接する本館と中庭でつながっていて、本館で行われる展示を見て、ここで食事ができたらいいんじゃないかと思う。重厚感があってちょっとレトロな建物で食事して、本館で美術品とかみるのもいいと思いました。

 地元に旧福島尋常中学校という、明治時代に建てられた鹿鳴館風の洋風建築があります。自分が通っていた高校のシンボル的な存在で、旧本館とも呼ばれています。
 この建物の設計当初は、学校の校舎としての機能をもっていましたが、現在は国の重要文化財に指定され、安積歴史博物館として地域の人々に開放されています。
 このように古い建物が、後に資料展示の場になるというのは、よくあることだと思います。しかし、この旧本館の講堂は、学年集会や講演会の場として、今もなお校舎の一部のように使われています。
 この建物は、歴史博物館という新たな遺伝子が与えられても、設計当初の遺伝子の名残が残っているということがおもしろいと感じました。この2つのどちらの遺伝子も、失われることなく共存していくことが、この建築にとって最も良いのではないかと思います。

僕は愛知にある名古屋市市政資料館をあげます。この建物は、1922年に当時の控訴院、地方裁判所、区裁判所として建設されました。赤いレンガ、白い花崗岩、緑の銅板、スレートの黒を組み合わせたネオ・バロック様式の外観は建物の周りの景観を引き立て、地域のシンボルとなっていました。現在ではその当初の遺伝子は無くなっていますが、この建物をいつまでも残してほしいという市民の要望があり、名古屋市市政資料館として再生されました。この建物のは現在資料の閲覧のほかに市民の会議や展示なども行っており、新しい遺伝子に変わっていると思いました。

建設当初の遺伝子が意味を持たないと思った建築として松本城を挙げる。

松本城は戦国時代の終わりに建てられた城である。城というからには、敵の攻撃を凌ぐということを意図して建てられた建物である。しかし、400年以上のときを経た今、この建物は国宝に指定され、松本市のランドマークとして、また歴史を後世に伝えるための資料として建ち続けている。

実際、松本城は、建設当初から、自分の周囲に城下町を従えてきたのだから、町のシンボルとしての遺伝子は建設当初からあったのかもしれない。しかし、戦をするためのシェルターとしての遺伝子は完全に消えてしまった。

しかし、この建物は遺伝子を失うことによってさらに輝きを増したと思う。松本城は、長い年月待つのとの地に聳え立ち続けたため、歴史的建造物としての新たな価値を得た。今後も、この建物が今の状態で永く聳え立ち続けることを願う。

 建築におけるすでに意味のない遺伝子ということは、設計者の意図とは違った状態であるということだと考えた。設計者から授かった遺伝子による効果が成されていない状態である。多くの場合、時間の経過によりその役割を失った建築は撤去され、それとは別に、また遺伝子を吹き込まれたものが新たに造り出される。
 設計者が人々の需要に沿って建築を作っている以上、意味のない遺伝子を持つ建築はニーズの変化によって現れてくると思う。この部分で後から作品が評価されることもある芸術家とは違い、たとえ人々が未来に求める建築がわかったとしても現時点での需要を満たさなければ、その建築は実現しないだろう。
 駅などの建築は、設計当初は完全に「駅」というその遺伝子の効果により働いてきただろう。しかし僕の地元にもあるような、古く、現在でも自動改札さえ設置されていないような駅は、以前と変わらない「駅」という遺伝子を持っているにもかかわらず、その遺伝子による効果を受けていないうえに、時代の流れに合わせた遺伝子の修正も行われていない。修正が行われていない理由は市の経済的リスクなどの事情だが、これのおかげで古い駅は現代人が頻繁に行き交う場所であるにもかかわらず、「今の時代の駅の遺伝子」は持ち合わせていない、不思議な場所であるように思う。

僕が設計当初の遺伝子が意味を持っていないと思った建造物は北海道の夕張市にあるロボット大科学館です。ニュースであったように夕張市は莫大な借金をつくってしまい、いろいろな建造物が閉鎖してしまいました。その中の一つがロボット大科学館です。ここではいろいろなロボットを紹介していました。しかし、客がぜんぜん来なくて閉鎖してしまいました。夕張市に関係のあるメロン博物館などはそこに建てることで遺伝子が意味を持つと思います。しかし、ロボット博物館を夕張市にたてても人がこないのでロボットを知ってもらうという遺伝子が全く意味を持たなくなってしまうと思います。これに意味をもたせるためには人が多く訪れる場所、都会などに移すしかないと思います。

 今の時代、少子化の影響からか各地で学校の統廃合が問題化しています。先日テレビで、都内における小学校合併の際に発生する、新校舎計画の問題についてやっていました。近年都内よりも郊外に住み、都内に住む人口は減少するという、いわゆるドーナツ化現象が起きています。それに少子化が深刻化しているため、小学校に子どもが集まらなくなるので、他校との合併が余儀なくされます。大概は合併の際、一方の学校に校舎が増築されるか、別の広い敷地に新校舎が建てられるそうですが、取り残された校舎はもう学校としての意味をなし得ません。それらは取り壊されて新しく公園にするという計画が一般的なようです。
 小学校としての遺伝子をもって創られた校舎を、より良いもののために別の遺伝子に組み替えようと考えると、立地条件にも左右されると思いますが、例えばアウトレットのようなものが考えられると思います。もちろん集客力のことを考えると改装・改築が大切であり、そもそもその地域にはたしてマッチするのかは難しい問題ですが…


その昔、城というのはその地域の殿様もしくは武将の家であり、またそれらの家臣達の今でいう仕事場だったわけである。殿様の世話をしたり、会議を行ったり。しかし、時代は流れ、現在では城はその役目を果たしていない。正しくは果たせないのであるが。そこで現存している城に、この城が役目を果たしていた時代、つまり殿様の家であった頃のものや資料を展示することで、美術館などで展示するよりその時代を肌で感じることができる。もともとあった城の遺伝子を少し変化させることで現在、そして未来にその遺伝子を伝えることができる。

名古屋市栄にある若宮大通り公園・冒険砦 (今回のお題から少し離れているかもしれませんが)

藤岡君と同様に私もこの公園を取り上げさせていただきます。

この公園は都市部に存在する高速道路の高架下に造られた、家族で賑わっていた事のある非常に広々とした公園であった。私もその昔この公園でよく遊んでいたのだが、緑と水の栄えるこの公園のもたらす効果は、自動車やコンクリート張りの高速道路で作り出される都市部の非人間的風景の中において、サスティナビリティを高める上で非常に効果的であったと幼い記憶から感じ取れる。環境都市コースの人間として意見すると、市がこの公園一帯に植えつけたDNAが果たす役目は、都市部のイメージをソフトなものにすること、そして人間と機械(自動車等)とを隔離することなしに暮らすことのできる新しい都市像を提案する都市公園としてのものだったのだろうと推測できる。確かに完成後数年は地域住民の憩いの場として、また名古屋の中心的商業地「栄」に訪れる人々が、新しい都市をたんのうする場として成功していたと思う。しかしいつからだろうか、その場に訪れる人の風貌が変わり始めたのは。その公園は都市部に存在したがゆえに、都市が生み出した浮浪者の行き着く先になっていったのである。温暖な気候の名古屋において夏の雨すらしのげるその公園は瞬く間に、ホームレスの公園と化していた。これは数年前に一度社会問題にもなった問題でもある。
来年度より都市開発を行っていくであろう私にとって、この議題を取り上げることはまさにこの先幾度となく考えさせられるであろう都市のあり方を考える上での第一歩である。建築デザインでもアーバンデザインでも、何を求められているかを認識することや、現状をきちんと把握することは必要な事柄だろう。
多くの人はこの問題そればかりを見て公園のあり方の賛否を問うが、わたしは今の都市の姿が浮き彫りになったこと事態このDNAを植え込んだのは正解だったと思う。新しい何かを提案するためには、土台をしっかりと固めることが必要であったということ、そして都市を創造する上で、正の要素のみならず、負の要素もきちんと考えてこそこの国の未来は改善されていくのだと思う。今まで目をつぶって山積にしてきた問題の一角が崩れ落ちてきただけだ。
 公園というものは本来誰でも利用可能な施設である。それが公園に与えられたDNAなのだから。そのDNAなくしては都市の本当の姿は認知されることはなかっただろうし、それが早いか遅いかただそれだけのこと。このDNAを植え込んだことによって先に述べたような、サスティナビリティに富んだ都市像は描くことはできなかったが、もう一つの都市像を本気で考えさせられるきっかけになったという意味では、本来の機能を果たせなかったにしても、別の機能を果たしたこの公園の事例は異例だと思う。
では、このDNAを他の何かに変えていたらどうか。
遊具を無くして、大人びた雰囲気のベンチに間接照明、子供の笑顔より若い二人の夢物語、そんないまどきのランドスケープデザインで、大人な都市空間とでも言わんばかりのDNAにしてみたら、多少は浮浪者には近寄りがたい存在になっていたかもしれない。ただ、ここに公園が存在していた限り結局は同じ現象が引き起こされていたに違いないと思う。やはり今現在目の当たりにしている問題を解決することが今あるDNAを活かす最善の道だと感じる

 いろいろ考えてみたのですが全然思いつかなかったので、ちょっと違うような気がしますが、私の実家を例に挙げたいと思います。
 昔、私の家の隣の家は、親戚の家でした。しかし、その親戚が引っ越すというので、隣の家を買い取り、壁を壊してドアを作るという簡単な工事をして2つの家をくっつけました。そのときに、台所やお風呂などを新しくつくりました。ですが、もともとあった台所やお風呂は壊さず、そのまま残してあります。全くといっていいほど使っていません。また、玄関も2つになってしまいましたから、当然片方の玄関は使っていません。そして、部屋数も多すぎて、使っていない部屋が4、5室ほどあります。これらは、意味の無いものになっています。
 どうすればよくなるのか考えてみましたが、私のなかでは答えが見つかりませんでした。すみません。

例は私の実家を挙げます。応接室はいまや物置に、叔母が強く希望して可愛らしい扉にした部屋は弟の部屋に、カーペットの上に布団、ベッドの上に荷物が載っていてその隣に布団、寒いキッチン・・・我が家は祖父の代の夫婦+子供3人用に設計されていると思う。収納は少なく、現在は夫婦のみがメインに暮らす家としてはいろいろ不便であろう。この遺伝子を何にしたらというのは難しい問題だけれど、とりあえず応接室は完全に物置にしておくしかないと思う。

掘り炬燵は、昔は火鉢を置き炬燵を作って寒さをしのぐために、使われていたと言う。現在ではほとんど見られなくなった。ほとんどがなくなったが、たまに見る掘り炬燵だったと思われる場所には、テーブルが置かれ、畳でも正座をしなくてすむ程度にしかつかわれていない。この掘り炬燵をどうするかは、このまま正座をしなくてすむのもいいと思うし、また、平らにしたかったら、収納スペースにして活用するのもいいと思う。

http://www.city.tochigi.tochigi.jp/kakuka/toshikeikaku/ekishuuhen/ekishuhen04.html

左下にある写真を見ていただけたでしょうか。昨年完成した地元の駅前です。そこにあった駅前のモニュメント?が今回の例です。

誰が設計したかわかりませんが、あの物体を駅前のシンボル的なものにしたかったのだと思います。しかし僕ら(家族や友達など)の中に、あの物体をすばらしいという人はいませんでした。果たしてそんなものが町のシンボル的なものになるでしょうか。僕ら市民にとって、あの物体は存在しないものになりつつあります。何のための再開発だったのか意味がわからないし、市の恥です。そこで今回、。僕が提案したいのは駅と連結した施設です。再開発したのに駅内部にカフェなどの休憩所がないので、駅前で座り込んで休む人が目立ち、景観があまりよくない。またTVのスタジオなどをつくって、地元のケーブルTVで放送し、あわよくば全国進出したいですね。
全体的に愚痴のようになってしまいすいません。

私は、神戸の北野異人館を例に挙げたいと思います。元々、北野異人館街は神戸開港に伴って、神戸へやってきた外国人の居住区でした。居住区であるので、もちろん住むために存在していました。また、自分たちの故郷に思いをはせるように住宅を建てていったので、多くの国の洋館が建ち並びました。北野異人館の遺伝子は、自分の故郷に住みながら(故郷風の家に住みながら)異国(日本)に住むことだと考えました。
今では、北野異人館は神戸の観光地の1つです。それぞれの異人館ごとに、外観、内装、展示しているものなど、それぞれに特色があって、良い観光地となっています。私はこの、建物の利用法はとてもいいと思います。当時の外国人たちの建築様式や生活様式がわかること、日本の歴史の一部の遺物であること、観光地として大いに賑わっていることが理由です。

  私が通っていた中学校の空き教室。昔は生徒であふれ、賑わい、活気のある教室であったにちがいない。 空き教室が出現するなんて設計者は考えなかっただろう。しかし、今は、少子化に伴い生徒数がどんどん減少している時代。実際、中学校をのぞいて見ると、以前にも増して空き教室が増えていた。教室ではなく物置になった悲しい姿の空き教室。
  この空き教室には、本来の、勉学に励む教室としての遺伝子はもうない。しかし、そのまま放置されることはなく、物置に生まれ変わり、物置としての役割を果たしている。となれば、これらの空き教室は新たな遺伝子が組み込まれたのだと考えることも出来る。

 設計当初の遺伝子が意味を持たなくなった建築に実家の物置をあげる。この建築は10年前までは寝食をする場で、新居を立てる際に居間の部分だけ削って物置代わりにしたものである。内部はそこで暮らしていた時のままで、使えば使うほど畳は傷つき障子に穴が開いていき、小さなお化け屋敷のようになっている。また、妙にスペースが広いため物置というより、捨てきれない物を置いておくような場所になってしまっている。建物自体にガタがきているので新しい遺伝子も組み込みようが無くなってしまっているが、とりあえずスペースの有効活用が課題だと思う。

 変な例えになってしまうが、私は実家にある犬小屋をあげる。
 ある日父が組み立て式の犬小屋を買ってきた。組み立てているそばで、家では犬なんて飼っていないのになぜだろうと思って見ていたら、父は犬小屋の入り口を板で覆い始めた。上に10センチくらいの隙間が残してあり、下の板の部分はオーブンのように開閉できるようになっていた。「これどうするの」と聞くと、父は「郵便受け。これなら雨が降っても濡れないよ」と得意げに答えた。そういえば家には郵便物が多いのにしっかりした郵便受けがなかった。犬小屋を郵便受けに変えようとよく思いついたなぁ、と思った。
 しかし講義を受けた今考えてみると、父は元々犬が住むという遺伝子を持っていた犬小屋を勝手に変えて別の目的に使おうとし、実際に今も使っている。犬が住むのと郵便を入れるのとでは目的がかけ離れており、設計者は誰もこんな使い方をするとは思っていないはずである。ふつうに売っている郵便受けにはどのようなサイズのものがあるのかよく分からないが、犬小屋くらい大きなサイズの郵便受けがあればこのようなことはしなかっただろう。つまり、犬小屋ポストの場合は元々ある遺伝子を変えるのではなく、別の本来の目的を持つものが充実(市販のポストのサイズが豊富)していればよかったのではないかと思う。また、もしこのような使い方を予想していたならば、上に隙間が開いたドアつきの犬小屋を設計すればよいと思う。

建築家が組み込んだ遺伝子が失われている建築の例として小学校を挙げたいと思います。現在の社会問題である少子化の影響で、教室が余っていて使われていないという状況が生まれています。僕の通っていた小学校でも、もともと1学年4クラスだったのが3クラスに減少し、使われてない教室がありました。つまり、社会の変化によって学校に求められる規模が変化したため、現在の学校はその能力をうまく使われてない状態にあります。学校とは公共物であり、町の中心であり、その町の象徴的なものでもあると思います。そして、そのような物をもてあましているのはもったいないと思います。そこで僕は学校を児童だけではなくもっと地域に、特に子供とは反対に増加の一途をたどるお年寄りに利用してもらえばいいと思います。例えば、お茶会や、囲碁教室など、老人クラブの集まりに利用してもらうなどです。そうする事で余った教室の存在意義が生まれるだけでなく。子供とお年寄りとの交流が自然に生まれることで、これからの社会で生活するうえで、お互いにとっていい経験になると思いますし、最近薄くなったという地域の、ご近所のつながりも強くなるのではないでしょうか。最近の学校の傾向としてセキュリティーを強化して部外者を締め出そうという傾向がありますが、セキュリティーはセキュリティーでしっかりやるとして、学校を地域のつながりの場として公開する事で新たな町の象徴として機能できるのではないかと思います。

今、日本のマンション業界は下降の一途をたどっていると思う。僕のおじさんはその被害者?のひとりでマンションを設計したのはよいのだが、周辺の開発も思ったほど進まなかったのも響き空き室が埋まらず、ボーナスをカットされてしまったらしい。。

日本のマンションは今、転換期を迎えている。高度成長期に建てられた物は、今では老朽化が進みリフォーム・建て替えあるいは取り壊しする。と言うような感じである。これらマンションには設計者の遺伝子と言うものがあったのだろうか? あったにしてもたった数十年で取り壊されてしまうようなものに存在する遺伝子なんてあってないような物では?と思う。

取り壊しのほとんどの原因は壁の内側にある配管の劣化である。なぜ配管を壁の内部にしたかと言うと、部屋をすっきりさせようとした設計者の遺伝子によるものだ。
 しかしそれは無意味な気がした。すっきりさせるのは確かに大切なことだか、そのやり方に問題があったと僕は思う。結局何十年かしたら取り壊す。それならば欧米のマンションのように配管をむき出しにしてでも長く使えるものにすればいいと思う。むき出しにしてもすっきりさせる方法はあるし、僕が思うのは配管自体むき出しでも仕上げさえしっかりやればすっきりするのでは?とも思う。そうすれば配管を取り替えるだけでリフォームも簡単であるからだ。

高度成長期に僕は生まれていないからよくわからないが、あの時代は作ってなんぼの風潮があったのかなと思う。需要超過の時代でありあればいいと言う感じであったのだろう。しかし今は違う。物事を長いスパンで捉えられる目と言うのがこれから設計をしていく上では大切な遺伝子であると思う。そうすれば設計者の遺伝子と言うのは、その建築がある限りしっかりと生き続けると思うしそれこそがこれからを担う僕たちに求められていることだと思う。

建築と言えないかもしれないが、愛知県名古屋市中区、栄の久屋大通にある久屋大通公園をあげる。公園はそもそも緑豊かで人がやすめる場所であるが、ここ久屋大通公園はホームレスの団地である。若き頃、よく栄で遊んでいたが、ここはホームレスがいたり、異臭がしたりと、公園だというのに暗い感じがした。夜は危なそうな人たちがたくさんいた。2003年にオアシス21という立体型都市公園ができたが、そこはまさしく(私の思い描いている)公園だ。オアシス21の下は、芝生や木、ベンチなどがあって、家族、アベック、友達同士、または気楽に一人で、楽しそうに安らいでいる人々がいる。久屋大通公園という大きな公園を目の前にしてこのオアシス21の公園をつくったのは、まさに久屋大通公園が死んだも同然だと思ったのであろう。どのような遺伝子を組み込んだのかはしらないが、当初の遺伝子は意味をもっていないだろう。

具体的な建築物が思いつかなかっかので流行語を建築と重ね合わせて考えてみることにした。
流行語には流行語大賞という賞があり、流行語に賞をあたえることでその年の出来事を振り返る教科書のような役目をはたす。しかし流行語はあくまでその年の流行であり、次の年には使われなくなり時代遅れの言葉として評されるようになる。
言葉に流行があるように建築にも流行があり、そのときの時代背景にあったものが基本的にはたてられる、その時代に高く評価されても今は評価されていない建築物が多くあるはずだ。それが遺伝子の意味を失くした建築だと思う。ただ、流行というのは、循環したりするものだから、今価値が失われている建築物も再び高い評価を受けたりするものも出で来るのではないかと思ったりもする。
思いつかないなりに無理やり具体例を出すとしたら、バブル期に建てられたド派手で不思議な飾りがつけられたパチンコ店ではないかと思う。ド派手さで人の目を引き,
夢を与え客を入れようとしていたのだろうが、今の時代でそれを見ると胡散臭く入る気をそがれる気がする。実際今立てられているパチンコ店はスッキリとした形のものが多く感じられる。 

私は例として、以前住んでいた金沢市内のマンションを挙げます。
 住んでいたのは半年ほどなのでなんとも言えませんが、家の真ん中に位置しており、ほとんどの部屋に面している3畳ほどのガラス張りの外部空間は私たち家族にとって意味をなしていませんでした。おそらく日の光を入るという最上階の人の特権として作られたのでしょうが、そこにプランターを並べるにしても囲まれているので真ん中に置いてちょっとは長く日が当たるかなぁというくらいで、コンクリート張りのその空間はなにも置くことなく、逆に寒そうで寂しい空間となっていました。
 なくなるとちょっとでも日が入ってた方が良かったとか感じるかもしれませんが、私はその部分を収納だったり他のことに使ったらいいと思いました。

今はもう設計当初の遺伝子を持っていないと思うものは、松本市にある旧開智学校です。これは、名前の通り、明治時代に学校として建てられたものですが、今は学校としては使われてはおらず、博物館として残っているものです。学校という建築は、教室や講堂など、目的がはっきり決められてつくられているものなので、他の使い方をすることは難しい建築だと思います。
旧開智学校は、国の重要文化財に指定されていて、今のように博物館として残すことにも意味があると思いますが、隣に市の中央図書館があることを利用して、図書館の分館として使ったり、昔の学校を体験する場として小学生などに開放する、という方法もあるのではないか、と思いました。

当初の遺伝子を失った建築として、地元にある廃墟になった旅館を例に挙げます。
その建物の中は全く片付けられていなく散らかっています。布団も敷かれたままで当時泊まっていた客の荷物もそのまま置き残されています。何か事故が起きて逃げたままの状態になっている・・そんな風に感じられます。
昔はよく肝試しで遊びに行ったけど、今思うとその旅館は何年も昔に当初の意志を失ってしまっていると感じました。今も心霊スポットとして人が遊びに来るが、そんな使われ方は全く意図されていないと思います。老朽化が進んでいるので取り壊して新しい建物や広場などをつくるしかないとおもいました。

設計当初の遺伝子が意味を持たないものということは、設計者が現実にした遺伝子を、使い手が別解釈してしまうものであると考える。つまり、この場合先天的なのだから、設計者がその建築は一義的であると確信していたのにもかかわらず、実は多義的な建築になってしまった、もしくは設計者の考える遺伝子以外のほうが利用者からしたら重要であったなどと、少しかわいそうな話である。
そこで考えるのは、ガウディのグエル公園である。実際にその地に訪れたことはないのだが、テレビやインターネットで何回も見ている。この公園は、当時ガウディが田園都市計画としての販売目的の分譲地区として建設した。したがってガウディの遺伝子は、そこに人が住み、一つの都市を形成することにあった。しかし、実際には60地区あったうちの2地区しか売れず、現在では公園となり人々の憩いの場となっている。ガウディの遺伝子は、なぜ当時の人々には伝わらなかったのだろうか。それは、田園都市計画自体がその時代に合わなかったことが原因ではないかと考える。合わなかったというよりは、むしろ先進的過ぎた考えだったと思う。今となっては分譲という名のつく土地、住宅、マンションなどは普通の考えである。しかしこれは約100年前の話であるので、人々にその考えは遺伝しなかったのだろう。
建築に宿る遺伝子は、やはりその時代に合わせたものでなければ人々に理解されないと実感した。どれだけアイデアが優れていても、時代に合ったものでなければ、その遺伝子は意味を持つことはなく遺伝もしない。そこでグエル公園を、最初から公園にしてみる。そうすれば人々に受け入れられ、当時から憩いの場として目的どおりに利用され、その遺伝子は意味を持つ。しかし、ガウディのように先進的な建築に挑戦していかないと、時代は進歩することはなく、ある一定のレベルを保ったままになってしまう。この世界最初の田園都市計画があったからこそ、現在の分譲という考えが存在しているのかもしれない。
時代に合わせた建築と、先進的な建築のバランスは、設計者の遺伝子において悩むところであろう。

早稲田大学・立川創平

設計当初の遺伝子を失いつつある建築として、公衆電話ボックスを挙げる。もはや説明は不要だろう。携帯電話の普及によって電話ボックスは減り続け、最多時の半分以下になっている。

確かに携帯電話があれば公衆電話を使う機会は少ない。しかし有線の通信網と、規格化された形態は新たな遺伝子を組み込む余地をたくさん持っている。

例えば緊急の逃げ込みステーションとして、ドアをロックすれば警察に通報できる仕組みが考えられる。またその大きな側面をLEDパネルで可変広告とし、蓄電池を備えれば、災害時に広範囲に情報伝達を行うことも出来る。

当初の遺伝子を失いつつも、その利点を現代に合わせて読み替えることで、遺伝子の発展的更新が可能であると考える。

 既に設計当初の遺伝子は意味を持たないと思ったものは客室。
客室とは客を招きいれるための部屋である。ならまあ必要かもって思うかもしれない。しかし、客とはだれ?妻の友達が来たとしたらきっとリビングでおしゃべりするだろう。知り合いだとゆったりくつろいだできるリビングに行く。≠客である。そうすると客とは..年に一回の家庭訪問、年末の親戚が泊まりにくること、また臨時の客。そのくらいであろう。
きっと客室は押入れと化しているであろう。それはいつも使わないからである。ならどうすればいいか。
家の中でトイレは用をたすために常に必要である。階段は上に上るために必ず必要である。リビングは家族が集まり団欒、生活するために必要である。こう考えて、客室がなかったら・・。
客室は臨時用で普段必要とするのではないから押入れ化するのである。

そこで自分なりの解決策。
A遺伝子とB遺伝子をくっつけてみれば新しい遺伝子が生まれるのではとと考えた。この場合、A=客室である。例えば、B=リビング。これは最近良く見るきがするが、リビングの一画に客室を設置すること。普段はリビングとして広々生活し、客がきたら仕切りを出して客室ができる。これなら臨時の部屋とならず普段も使える。(A+B=AorB)
B=外部とのリンク=庭とのつながり。リビングの雰囲気とは違い、この部屋に来たくなるようにする。庭の眺めがよく食後にのんびりするとか・・これは自分でおもったことだがうまく説明できないが。(A+B=C)
僕は客室がなればいいとはおもわない。臨時のときには使用するから。親戚や客が来たときリビングに寝かせたりするのはどうかと思う。また客室に招きいれることにより礼儀というかリビングなどとは違ったおもてなし、気配りなどというイメージがあるから。

その遺伝子だけでは自立できないが遺伝子の結合により維持し、活発化してゆく。

あちこちに点在するお城。
かつてはその土地の殿様の家みたいなものだ。
さすがに現代にそのようにお城に住んでいるものはいない。
いまや、観光名所となっているのが普通だ。
当時のお城を建てた人々はまさかこんな使われ方をされるとは思ってもみないだろう。
何がそうさせたのか。
間違いなく時の流れだと僕は思う。
お城の使い道は他にあるのか。とても考え付かない。
お城のおかげで観光ビジネスができているし、お城から観光を切り離したら多くの犠牲が出ると思う。これが最良の方法なのではないかと思う。
だからこそ、お城の周りの景観をもっと重視しなければならないと感じる。
問題が解決されれば、より人が集まって今の使い方が活きてくると思う。

地元の駅前商店街を挙げる。以前はデパートが二つあり、賑わいもなかなかのものだったが、郊外にできたサティのせいで二つともつぶれ、周りの商店も次々とつぶれた。サティは家から遠い。いい迷惑だ。設計当初の遺伝子を失った建物が増え、商店街は閑散としている。商店街周辺は早くから区画整理に取り組んでいたので、道路は広くまっすぐで歩道も広い。それが逆に人気のなさ、寂しさを強調している。現在は、空き店舗の一部は若者によるチャレンジショップやインターネットスペースに利用されている。空いている建物を安く貸すことは事業を立ち上げようとしている若者にとってありがたいことであり、違う形で有効活用されていると思う。

自分は歴史が好きである。
そのなかでも戦国時代に建てられたようなお城に興味がある。戦国時代、各々の戦国武将が自分の城を所有し城を中心として戦をくりひろげていった。
当然、天守閣は戦場となり、天守閣には急な階段や攻撃をするためにもうけられた小さな窓など様々な工夫がされている。つまり天守閣は戦をするために建てられたのである。
江戸時代も後半になるとほとんど戦がなくなり武将もいないような時代となった。しかしそんな時代でも天守閣は多く残っていた。この時代では天守閣は高くそびえ権力の象徴とされていた。そして、平和な現在でも天守閣は観光地として残っている。
お城の天守閣は時代のニーズとともに、建物の使われ方も大きく変化していったのがわかる。戦場が平和な観光地に変化をとげているのがおかしく思う。

学校は廃校になったらもう最初の遺伝子の意味をもたない。僕の地元には、生徒数の減少で廃校になった学校がある。廃校になった学校はそのままの状態で残っている。残っているというよりは、捨てられたという感じがする。廃校になった学校周辺には民家も数えれるほどしかないし、そのまま何もせず残しておくのもべつにいいかもしれない。問題にならないから。でも学校としての遺伝子をもってつくられた校舎を捨てず、新しい遺伝子を与えるほうがいいと思う。自分が遺伝子を与えるなら、アパートとかがいいと思う。最近意味を知った言葉で言うと、正しいかかわからないけどSOHO。入居する人は、自給自足生活がしたい人とか、陶芸家(自分のイメージする陶芸家は山小屋にこもって作品をつくっている)、画家とか。いなか、山を活かす。
数多くの建築は、年月が経てば無駄になるから、建築の遺伝子組み換えは重要に感じた。

床の間は、日本の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つである。客間の一角に造られ、本来の目的は掛け軸や活けた花を飾る場所である。
よく民宿などで床の間にテレビや金庫が置いてあるのをみる。僕の実家でも床の間に小さめの冷蔵庫が置かれている。これは本来の床の間のハレの空間の美しさを完全に失わせている。料亭や旅館などでは日本の伝統的な遺伝子がうけつがれており、今後も絶やしてはいけないと思うが、民宿や現代の一般住宅には床の間をつくる必要はないと思われる。
畳の部屋は平皿的な使い勝手の良さがあると思う。だからテレビや金庫を置くくらいならば床の間をわざわざつくらず、畳の空間を広くとれば良いと思った。

既に設計当初の遺伝子は意味を持たないと思ったものとして、松本駅の改札口前にあるびゅうプラザである。びゅうプラザは、東日本旅客鉄道(JR東日本)の旅行センター(旅行業営業所)の名称である。基本的には駅構内に設置され国内旅行商品(「びゅう」)や海外旅行商品(「びゅうワールド」)を取り扱うところである。
駅にこのような旅行商品を扱う店舗があるのは便利なことである。しかし、改札口の目の前に広々と店舗が展開しているのはどうかと感じる。駅に来る人の何パーセントが旅行営業所を利用するだろうか。旅行営業所は必要なのかもしれないが、あそこにある意味はない。改札口の目の前というよい位置なのだからもっと利用される空間にするべきである。あの空間には待合室か、喫茶店をつくるべきである。松本駅の待合室は、あれだけアルプスの方に開けた通路があるにも関らず小さい。松本駅にいく度に、びゅうプラザの前で待っている人が大勢いる。必要とされているのは人を待てたり、コーヒーでも飲みながらゆっくり休める空間ではないだろうか。

地元の商店街をあげます。私の地元は、15年ほど前までは、栄えていました。音楽の町と呼ばれ、いろんな国の人が多く住んでいて、たくさんの国の文化が混ざり合うことから、ちゃんぷるー文化と呼ばれる町です。商店街の中には、衣料品店、総菜屋はもちろん、ライブハウスやバーなど、アメリカ人が多い土地ならではのものもありました。そんなコザの町の商店街も今では、多くの店のシャッターがしまり、その前ではヤンキーやホームレスがたまっているため、私は恐くて一人ではそこを歩くことができません。だから、その商店街は本来の意味を失っていると思います。いその原因は、交通の便が悪いのと同時に駐車場がないことだと思います。廃れた商店街に新しい遺伝子を吹き込むには、第一に駐車スペースの確保が重要です。そして、商店街の空き店舗は、住民、学生、商店が地域交流のできるスペースとして利用し、商店街という建物(場所)だけでなく、町の人全体で活性化していけば良いと思います。このように、昔は成功していた建物でも、時がたてば廃れていく例は数多くあると思います。だから、建築の遺伝子を考えることは重要であると感じました。

建築物が思い浮かばなかったので、実家の近くにある東御芝公園という所を挙げさせてもらいます。その公園はとても広く、ジャングルジムやいろいろなオブジェが飾ってあるスペース、その周りは犬を散歩させたり、ウォーキングしたりするスペースがあります。できた当初は、その使用目的に沿った使われ方がされていましたが、最近は正しい使い方をする人が来づらい環境へと変わってきています。なぜかというと、公園のいたるところにゴミが散乱していることや学生が占領していることが影響しているのです。本来、公園とは多くの人がリラクゼーションスペースとして使用するものです。これを本来持っていた遺伝子とするなら、何かに変える前に元の遺伝子に戻してほしいというのが僕の願いです。与えられた問題からかなり反れてしまいすいません。

私は例として地元のJR下関駅の近くにあるグリーンモールをあげる。グリーンモールは戦後の混乱期に闇市として生まれ、今は商店街として利用されている。韓国にとても近い下関なので在日朝鮮・韓国人の人々が経営する店や免税店が多く並んでいる。最近ではリトル釜山とも呼ばれている。また関釜フェリーが発着する下関港国際ターミナルが近くにあるため韓国人の観光客も多く訪れている。昔はとても活気のある場所だったらしい。しかし、近くに大きなデパートができてからまたたく間にさびれてしまった。今は、日曜日でもほとんどの店が閉まっているという状況。ますます人が近寄らなくなっている。まず、見た目がものすごく悪い。こんなことを言うと地元の文化を否定することになるかもしれないが、グリーンモールの周辺には違法増築だらけの戦災復旧アパートが所狭しと並んでいる。この通りだけ時代が止まっているような印象を受ける。薄暗い、寂しい、怖いという感想しか浮かばない。現在、市では水族館を作ったり市場を改築したりと地元の活性化を図っているが、このような昔からある場所が置いてきぼりにされている状況になっている。私はもっと明るく親しみやすい場所になってほしい。この今ある町並みや韓国との文化をもっと活かすことができたらいいと思う。そして、その古い文化を残しながらも改築するなど新しいものに生まれ変わることも必要だと思う。

鳥取砂丘を下っていってまっすぐ進むと大きな歩道橋があります。4車線の道路が交わる交差点の上に、ロの字型にかぶせられた歩道橋です。毎朝学校に通う子どもたちの賑わいで、ゆれているようでした。階段を上りきって橋の部分にはいろんな生き物たちの絵が描かれたパネルがはめ込まれていて、通るたびに興味が行ったのを思い出します。
僕が小学二年生から三年生に進級する際に、その交差点を隔てた区域で学校が二つに分離しました。ニュータウンの建設とともに新しい小学校も建てられたのです。通学路の道のりも半分以下になり、子どもたちも歩道橋に背を向けながら学校に向かうようになりました。
それからはその歩道橋を利用している人の姿を見るのはほとんどなくなり、階段下には自転車が停められるようになりました。橋、の部分には雑誌やコンビニのビニル袋なども捨てられるようになっていました。
鳥取県は高齢者人口率の割合も日本一で、近くには老人介護施設もあります。長い階段を上り下りするには苦労すると言う人もたくさんいると思います。
もともと、子どもたちの安全、交通の円滑化といった遺伝子が組み込まれて建てられた歩道橋ですが時代の流れとともに、その遺伝子は薄れてしまい、いまではさび付いた鉄の塊が置かれているような姿になっています。
ここで、新しい遺伝子を吹き込むのに自分なりに考えてみました。
この歩道橋を利用している人は昔に比べて大幅に減ったと思いますが、利用している人もいます。なので「なくする」ということはしてはいけないと思います。
歩道橋は久松山という紅葉の綺麗な山のふもとにあり、交差点の東方向すぐのところには美術館があり、ちょっと離れますが歩いて行ける距離で、博物館、その隣に仁風閣、鳥取城跡、があります。また、交差点の西側にはわらべ館があり、といった具合に久松山のふもとには観光、文化名所たくさんあります。この歩道橋の位置はそれらを結びつけるのに欠かせない場所であると思います。
なのでこの歩道橋に歩道橋としてだけの遺伝子を与えるのでなく、階段、橋の途中などに観光マップ、名所のイラスト、産物、などといったものをしるし、歩きながらそれらを眺め、観光の歩道橋、としての遺伝子を新たに吹き込むこと考えました。街づくりにも参加していき、より良いものになると思います。

 長野市権堂にある「ネオンホール」というライブハウスを挙げます。そこは何年か前は空き家でした。音楽が趣味の人がそこに住み始め、次第に音楽仲間たちが集まるようになり、ライブハウスにしたそうです。
 僕は何度か行ったことがあるのですが、外観はライブハウスには全く見えないただの家で、内部もステージ以外はただの木造小屋といった感じです。入り口や階段も家としての大きさなので人が集まるところとしてはかなり狭いです。しかしそのライブハウスらしくないところがすごく魅力的なのです。この家を設計した人は、快適なくらしができるような家という遺伝子を組み込んだと思います。しかし今、家としての遺伝子が適応しないライブハウスに使われています。そして家としての遺伝子(形状)がライブハウスに魅力を持たせています。
 この皮肉というか矛盾というようなものが建築にはよくあると思います。

僕の通ってた小、中学校は同じ敷地に建てられ校舎が隣り合わせになっている。日本の学校の校舎に比べれば学生数は少ないのだがそれでも全校生徒で当時は300人を越えていた。しかし今は朝鮮学校に通う学生の数は少なくほとんどが進学のために日本の私立、公立の学校に通わせる家族が増え続いている。そのおかげで空き教室は増え当時の活気があふれる空間とは程遠いものとなってしまった。当時に朝鮮学校として産み落とされた遺伝子は今になってはそのままの状態を保とうとするのに意味はないと思う。時代の流れによるニーズの多様化が起こっている今日において教室を図書室に変えたりしてあらゆる機能をとり入れるべきであると思う。しかし生徒を増やすと言う意味では最も我々在日としては当初の遺伝子を再び上手く生かすことが第一の目標なのかもしれない。

先生の意図する答えとは違うかもしれないが僕は今回の課題について設備のことで思い浮かぶものがある。僕は今、コンビニでバイトをしているが全く使わないし、何に使うのか分からないものがある。それは手洗い場だ。手洗い場という表現すらおかしいのかもしれない。なぜなら用途が分からないからだ。コンビニと言う狭い空間の中で手洗い場はレジの中とトイレ(用具室も含む)にあればいいと思う。しかし僕の働いているコンビニやその他のいくつかのコンビニではそれ以外に主に飲みものの棚の隣に手洗い場がある。客としても従業員としても使ったことがないし使っている人も見たことがない。コンビニのような小さい場所で様々なものを扱っているお店ではできる限り無駄なものは省きたい。また手洗い場はきれいというよりも汚い印象がつよい。設計する時は何らかの考えがあったのかもしれないが実際は全く意味を持たない設備となっていると思う。いっそのことこれは排除して新しい棚を設置して商品を置けばよりコンビニとして利用しやすくなる。また汚いイメージの水廻りをなくすことで美観の向上にもつながるだろう。

今治市公会堂。地元にある建物で、丹下健三さんの作品。音楽ホールとして活用されている。しかし、音響は悪い。建物もみた感じ、暗く重い感じがする。
建てられた当初から、丹下さんが死ぬまでは取り壊されないという、約束だったらしい。でも、現状を考えてみると、それでよかったのか。音響もよくなってくるはずのだから、もっと先のことを考えてほしいと思った。街のシンボルとして、考えられているだろうか?そして、建築界で有名な丹下さんのことをどれだけの市民が知っているのか?
そういうことを考えてみると、遺伝子はあったのだろうかと思う。音楽ホールだけでなく、可動式の客席にして、大広間としても使うことができるのなら、もっと市民にも開放されると思う。

愛知県春日井市の、高蔵寺ニュータウンのDNAを考えました。
高蔵寺ニュータウンに最初に与えられたDNAは、名古屋市のベットタウンとしてのDNAです。
他のニュータウンと同様に、戦後の急激な都市部の人口増加への対策として作られました。
ニュータウンの中には、たくさんの団地がたちならんでいるがそこに最初に入居してきた人の多くは当時新婚だった団塊世代の人たちです。
安価で住むことのできるこの団地は、当時の新婚夫婦や、また地方から名古屋市に働きに出てきた人の生活の場となりました。
そして子供が生まれ、たくさんの学校もできました。

しかし、ニュータウンに最初に与えられたベットタウンとしてのDNAは、現在団塊の世代が一斉に退職し始めるのと同時にその役割を終えるように見えます。
子供達は独立しニュータウンを出て行きます。学級数も減り始めました。
たくさんの団地は老朽化し、住む人も減り始めています。幽霊団地と呼ばれるものまであります。
近くの商店街もほとんどしまり、地元の祭りもなくなりました。

そこで、オールドタウンと呼ばれるようになりつつあるニュータウンに与える新しいDNAを考えます。
それは、団塊世代の新しい生活の場としてのDNAです。
2007年団塊世代の人々は一気に退職をはじめます。
団地の老朽化や、駐車場不足による路上駐車、シャッター続く商店街など問題は多いですが、住宅地として設計されたため、緑が多く残り、公園も多く、非常に住みやすいところです。
街の骨格はよいと思うので、老朽化した団地を取り壊して新しいニーズに応えられる質の高い集合団地に建て替えると良いと思います。
高齢化していくことを考えて、バリアフリーなどを完璧に整えるといいと思います。
人口が減った分建物を低層化できるので、景観もますますよくなります。

戦後の高度経済成長と共に生まれ育ったこの町は、今はもうニュータウンとしての賑わいはありませんが、新しいDNAをとりいれて、文化の厚みをもってさらに成長していけると思います。

私は地元の駅の百貨店のビルを挙げます。このビルはいつからあるかわかりませんが私が小さい頃はちょっと服を買いに行ったり、デパ地下でおいしい物を買ったり、人もたくさんいたし、駅とくっついてあるので栄えていました。しかしここ最近は廃れていくいっぽうで利用者も少なくなっていき、ついに今年の冬で閉店になってしまうみたいです。これはもう遺伝子をなくしてしまったと思いました。しかし、このビルの代わりに立体駐車場を作ったらいいんじゃないかと思います。その理由は、路上駐車が多いし、駅のロータリーは狭くて使いにくいし、近くに駐車場が少ないからです。だから、立体駐車場ができたら、乗用車だけでなく、バスやタクシーも動きやすくなるんじゃないかなと思いました。

 私の小学校の1、2年生の教室は廊下との壁(仕切り)が動かせるようになっていました。1年生のとき開校した学校でまだ新しくいろいろなときに壁を動かしていました。しかし、それは結構面倒なことで2年生になってからはほとんど動かさなくなりました。動かすのは文化祭のときぐらいでした。きっと設計者は活発な1、2年生のために壁を動かし広い教室に出来るようにしてくれたのだと思います。実際はほぼずっと広い教室のままでした。
 今思うと自転車の変速機能に似てる気がします。初めはその時々で段階を変えるのですが、そのうち1つの段階だけで動かさなくなりました。
 便利にしようとすることは便利になることももちろんありますが、意味のないことはよくあることだと思います。難しいです。
 でも私は壁の動くあの教室は好きでした。

 私が思う遺伝子を失ってしまった建築は、私が通っていた高校のトイレです。私の高校は女子高だったのですが、男女共学になったため校舎を改装することになりました。そこで女子便所は半分男子便所に改装することになりました。最初は女子だけのものとして作られたのにそれが意味を持たないものになってしまいました。今は男女共学になり男子が2学年いる状態です。だから、1学年は女子が困っている状態です。来年からは普通になるのですが、去年と今年はそんな風に思いました。

〇〇さん宅の屋根は屋根としての遺伝子を持っていた。
しかしそこに家族が居間のように使うと言う遺伝子を与えた。
屋根は本来雨風や日光を遮るためにあったはずなのだがそこで団欒するということを付け足した。
そしてその突然変異した遺伝子は手塚夫妻によって新たに受け継がれて
屋根の家として建てられている。

自分の経験した建築では思いつかず一番最初に浮かんだのが屋根の家でした。
屋根の遺伝子はまだ存在していますがリビングのような遺伝子も持つことになっています。
あと誰が言っていたのか忘れたのですがテレビで『自分が思っても見なかった使い方をさ
れるとうれしい』と言ってました。
最初に組み込んだ遺伝子はよくも悪くも変化することがある。
良く変化したなら新たな遺伝子として継承していけばいいし、悪く変化したならばそうな
らないように最初に組み込むべきである。
自分としては良くも変化しうるように設計できればいいと思う。

遅れてすみません

設計当初の遺伝子が意味を持たなくなった建築として、地元のデパートを例に挙げます。

そのデパートは今から20年ほど前に建てられ、当時は僕の地元で最も大きな建物で人が最も多く集まる街のシンボル的な存在だった。このデパートは屋上に公園のような遊び場があり、買い物以外の目的で訪れる人も多かった。実際に僕も子供のころ家族や友達とよくそのデパートに行き遊んだのを覚えています。
しかし、別のデパートがどんどん建てられ、そのデパートは目立たなくなり閉鎖されました。
いま地元は高齢者の割合が多くなってきているためデパートは現在、その大きさを生かし、老人ホームとして使われています。
このデパートは設計当初の遺伝子に意味が無くなってしまいましたが、その地域の環境にあわせ新しい意味を持つ事ができた例だとおもいます。

スペインに存在するサグラダファミリア。これはアントニオ・ガウディが設計したのだが、当初彼が埋め込んだ遺伝子、意図は、「人々の現世の罪を購うために、聖家族に捧げる大聖堂」というものであった。しかし結局、彼の生存の間に完成しなかったのである。この建築物は、人々の浄財のみで建築されているために工事がしばしば中断しているのが現状で、今後あと何百年したら完成するのかさえはっきりしない。もう彼がいなくなってから100年以上がたった。ホームの人々はまだしもアウェイの人々はそこを観光地としか思っていないであろう。実際に僕もそうだ。彼の埋め込んだ遺伝子はどこへ消え去ったのだろうか。これからも絶え間なく時代は流れる。彼の遺伝子が忘れ去られる前に早く完成しないだろうか。
話は変わるが、春休みにヨーロッパ建築移動ゼミナールでスペインに行くという話がある。その際サグラダファミリアも訪れる。たぶん参加者のほとんどが観光目的であろう。というかそうなってしまうのはしかたない気もするが、もし僕が実際に行くこととなったとき、観光地として写真を撮るのもいいが、ガウディの遺伝子をしっかり理解した上で見学し、少しでも彼の表したかったことを理解し、建築の学生としていい勉強ができればと思った。

坂牛研究室の芦田貴文です。M2生による2順目の批評を行うこととなりました。
皆さんの回答を読ませていただきました。今回のお題は建築家によって、または建築当初に意図された意味が機能していないものを挙げ、そしてその状態をより良くするためにどうすべきか回答せよ、という二段仕立てでした。ところがどういう訳か質問に答えられていない回答がみられます。まず一つ目の問いに対して建築で答えていないもの。それもありえなくないが、もしそうするなら納得する説明が欲しい。また、誰もが知らないであろう建物が多数挙げられていたけれど、その場合、どういうものなのかわかるように、見ていない人も経験したような気になるように書いて欲しい。2つ目の問いに対しては、現在どのように使われているのかという解説を述べている人がいたが、それも質問の意図からは外れているのです。
院生の授業「言葉と建築」の第十講の坂牛先生の今回の好評では、どのように回答が読まれているのかのつぼが書かれています。
http://ofda.jp/lab/lecture/word2006/bbs/2006/12/post_6.html
それだけではなく、研究室ホームページのアーカイブには、去年の「建築のモノサシ」で行った課題を読むことができます。それらを見て、今回のお題のツボがどういうところにあるのか、またはどうやったら惹きつけられるコメントになるのかを考えて欲しいです。
 さて、今回惹きつけられたコメントについて。
高木美帆さんのコメント。確かに現代では建築の機能的なことだけではなく、解体して別のところに移築してしまうことがあり得る。今回の事例では、もとの場所では立派そうなものが、その移築された場所ではキッチュさが漂っているというのである。高木さんは、建築家が埋め込む遺伝子は機能面だけではなく、その場所のさまざまな特性を建築に埋め込みながら設計しているのであるということを発見している。コンテクストを切り離された建築がはなつ異様さは読み手にも想像力を働かせる。また、居住することこそ必要であるという考えは、シンプルだけど切実だ。
 使用や機能という考え方に縛られず、場所性のようなものが建築に遺伝子として埋め込まれていると捉えた高木さんのコメントはみごとだと思います。
よって芦田賞とします。

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