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第九講お題

今回は自然。
いつもは分かりやすいように適度に本の内容をはしょって話すのだが、今日は重要なので全部無理して話してみた。だから逆に分かりずらかったかもしれない。しかし自然は建築を考えるとき容赦なく我々と対峙する何かなのである。ところで僕にとって自然とは設計の中で常に自分が制御できない何かと感じている。uncontorlableなものを設計の中で常に想定しそれを自然と呼ぶのである。授業でも言ったが、分からない神秘性のようなものである。道無き道を進むような建築を作りたいとよく思う。それが僕にとっての自然ではないかと考えている。そこで今日のお題だがあなたにとって自然とは何か?ひどく抽象的な質問だが、逆にどのように答えてもよい。話が広範にわたるものであるから質問も広く答えられるようにしてみた。ただし授業の中で出てきた人物でもテーマでも概念でもよいが何かを取り入れて答えて欲しい。

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森川健太:

06TA344B 森川健太:

 自然とは『壁』である。
 
 私は以前、「自然は不要なのではないか?」と考えていた。
 自然が様々な機能(森林なら、光合成で酸素を作る働き等)を発揮して我々の生命活動を助けているのは周知の事実である。しかし、それら全ての機能の代替品を人間の技術によって作成すればよいのではないだろうか。全ての機能が人間のコントロール下にあれば、自然破壊も起きないのである。
 
 19世紀後半から20世紀にかけての自然の拒否の考えは、「技術が自然に取って代わる」というものであった。上記の私の考えは少し過激すぎるが、意図していることは同じであろう。
 この時代、人々は徹底的に自然という『壁』を越えようとしていたと思う。直線的な建物、大量生産、そして自然を省みない技術発展への飽くなき意欲。人々が技術の向上だけを見つめて、それだけを目標に生きていたような時代だったのである。
 
 そして、人類は敗北したのだ。結局自然という大きな壁は越えられずに、超えようとがむしゃらに頑張った痕跡だけが自然破壊という負の遺産として残り、自然の圧倒的な力を我々に見せつけた。そして20世紀後半は環境主義へと転向したのだ。
 
 自然への敗北感が、今の我々の自然への姿勢を決定付けているのではないかと考える。自然には絶対勝てない、でも19世紀以前のように自然の驚異に畏怖するほどではない(技術の進歩により、自然の実体も明らかになってきた、"と思っている")。だから自然と共存していく道を探ろう、という感じである。(悲壮的な敗北感、というほどではない)
 ただ最近は、自然への接し方に疑問を覚えることもある。やたらに氾濫する商品促販のための「エコ」や「省エネ」という言葉、気持ち程度の街路樹や室内の観葉植物などは、何だか自然の下位互換の様である。自然は大切だと謳う一方で、自然への畏怖を失っている。そんなアンバランスかつ油断した状態のようにも思えるのだ。
 
 はじめに述べたように、自然とは『壁』である。超えなければいけないものではないが、いつかは越えてしまうものなのではないだろうか。壁を越える方法は、私が前述した技術による完全支配かもしれないし、宇宙時代の到来かもしれない(自然から人類が切り離されて、新たな環境を自分達の手で切り開くということ)。
 そのためにも現在のような馴れ合いはやめて、自然に対する考察を深めるべきである。現在の我々が思っているほど、自然は自由に出来る存在ではない。無条件降伏的な畏怖は必要ないが、自然の大きさを再認識するべきである。これは自分自身にも言えることだ。
 そうしないと、いざもう一度『壁』を越えようとしたときに同じことを繰り返し、同じしっぺ返しをくらうことになるのではないだろうか。

浅野研究室 06ta308f 大田智紀:

大儀の意味での自然と言うものについて記述する。
自然を見て美しいと思うこと自体が不自然ではないのかとも考えてしまう。その人の中に、すばらしいものが確立していれば、そう思うことはないのではないか。かといって、全ての自然を排除したある意味''バーチャルな世界で生きる''と言うことを考えると、到底できそうもない。講義の中で先生が空を眺めながらおっしゃっていた、とても美しい雲の色や形に感動を覚えるのは自分も同様に感じる。

意識とは不自由なものである。多かれ少なかれ、人間の感情は自然を求める。しかし、建築を造る事自体が、自然を排除すると言うことに繋がる。環境保護という観点から見て一番の策は、人間の移動を止めることではないだろうか。それこそ、まさに仮想現実の世界である。今の時代では、現実と電子処理した風景は明らかに違うが、技術が進むと、その境界はほとんどなくなるであろう。人は、現実と仮想現実の区別すらつかなくなるのかもしれない。

時折考えることがある。すべてを排除した世界というものにおいて、身体は必要なく、意識だけが存在するのではないか。まるで、暗闇にいる時のように、自分の手さえ見ることができず、その時に身体とはどういう意味を持つのだろうか。だからあるいは、人は触れることのできるものを大切に思うのだろう。そういう点では、書籍をデータ化するという考え方が万人に受け入れられにくいのかもしれない。

記号を覚え、数式を組み立てることによって、不思議を排除する。そうしないと、新しい不思議が見つからないからなのかもしれない。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、それらを一つずつ消していく。またそれは、もっともっとすばらしい不思議に出会えると信じているのかもしれない。人間のアイデンティティは、素直な思考によって不可逆的に軟弱になっていくのかもしれない。

06TA338H 土本研究室 三村卓也:

私が考える自然とは、という問である。自然とは「違和感のないもの」だと考えます。音楽にたとえるならば、メロディが流れること。
natural:そこに存在していて違和感のないもの、あたかもはじめからそこにあるもの、流れるような綺麗なメロディ、音の連続、と捉える。
unnatural:そこにあるべきではないものが存在すること、断絶されたメロディ。
naturalの中のunnatural:場の中にあるべきではないものが存在するが、全体としてあってもの違和感のないもの。音楽でいう「はずし」や「ハモリ」にあたるものだと考える。これが、ギャップであり、ミスマッチであり設計にも応用可能な手法の一つと考える。
自分は、そこにあるもの、違和感を感じないものを考えることは好きである。中でも面白いと感じるものが、naturalの中のunnatural。ギャップやミスマッチである。これは、特に民家再生において有効な手法であると感じる。古き歴史を刻んだものに、近代製品や空間をぶつけていく。例えば、古民家を再生して、インターネットカフェ。これにより、ファサードに古民家の風合いを残し、中には近代的な空間が広がる。街中のネットカフェの風貌から敬遠していた年配層を気兼ねなくその空間に誘い込めるようになるかもしれない。
通して考えると、「バランス感覚(Alberti L.B.)」が自然を生む。という結論に至る。naturalとunnaturalのバランスが大事である。ギャップを多用しすぎると、それはunnaturalがnaturalを凌駕し、全体はunnaturalになってしまう。歌においてハモリのパートが主旋律を凌駕した場合、もはやその歌にはメロディは存在しなくなる。加えて、設計において考慮すべきは、「観者の知覚の構成物としての自然」がある。これこそ難しい問題である。自然や美の感覚は人によって異なるからである。当たり前のことであるが、施主の自然の感覚を引き出し、自分の自然の感覚とをすりあわせる作業を惜しまないことが重要であることを再認識させられる。
今回の講義を終えて、なぜ人の美の感覚が異なるのかが少しわかったような気がします。これほどまでに、美に対する概念が存在するのであればどの概念を自分の核に据えるかで、個人の感覚はそれぞれ変わるのは当然と思えました。

06ta351e 山田 匠:

坂牛研究室 山田匠

「すこしゆっくりしてみる」

設計をする上で最も使いたくない言葉、その一つに「サステイナビリティ」があります。
これは、もちろん現代において、建築意匠と自然を結びつける言葉になっていると思います。

それでは現在の、建築意匠におけるサステイナビリティの実践を考えてみます。
設備設計との関係からのファサードエンジニアリング、コンピューター解析を利用した形態生成、が挙げられると思います。
もちろんこれらは、建築を考える上で欠かすことのできないものだと思いますが、どうもまだ機械の美学最高!の域から抜け出ていないような気がしてなりません。
他にも地場産材の利用で、隈健吾があがるでしょう。
しかしそれは明らかなポリティカルコレクトネス、「昔っていいでしょ?」の域を出ていない気がします。
隈健吾の様な、地場産材の利用と同等のものに民家の再生があると思います。もちろん、民家再生は現代において重要なことであり、世の中の空気もしっかり掴んでいることだと思います。(少し古い言い方をしれば「LOHAS」)。

それでは、上記の方法以外で、建築意匠がサステイナビリティに関わる方法は何なのかを考えるとそれは、
ゆっくり時間を流すことではないかと思います。
社会の高速化は、ヴィリリオを出すまでもなく、明らかなことだと思います。それに対し、人が息苦しさを感じているということも言うまでもないでしょう。その反動として、(ちょっと感覚的な言い方になりますが)、自然の持つゆるくて大らかな時間の流れが求められているのではないかと思います。その建築的実践のひとつとして民家があり、これが民家の「昔のものっていいでしょ?」ではない、現代的意味だと思います。
またこれこそ建築意匠における自然の現代的意味になるのではないかと思います。
具体的な方法の一つとして、ゆるやかで水平的な広がりがあると思います。
(この部分は、多分ロッシの「都市の建築」を建築計画学的でない解釈をすることで建築意匠への糸口がもう少しつかめるのではないかと思います)
この様な建築を実践している日本人としては、伊東豊雄や、石上純也があがるとおもいます。また、その様な建築は伊東豊雄自身も言うように、既にサステイナビリティという概念は通り越しており、何か新しい概念を定義すべきなのではないか(と思います)。

土本研究室 池田千加:

人間はもっと自然体に。
制度としてしばるのではなく、もっと自由に、もっと自然に。

わたしのノートにはこう書いてあった。

自然体でいることはとても難しい。
自然を守ることより難しいとも思う。
自然体でいたい、と思うときこそなれない。
本当に難しい。
ノートをとりながら、そんなことを考えていた。

本当におおざっぱで良いのであれば、人工的なものに対する自然は、なんとなくわかる。
太陽、空、星、森。
ただあまりに巨大きすぎて、なんとなくしかわからない。

それから、英語でwildとなる自然。
荒れ果てた、耕作していない、人の住まない、という自然。
これは、かなり具体的に頭に浮かぶように思う。

自然のもつ、もうひとつのあのノートの時に思ったニュアンス。
なんとなくでもわかれば、と思うくらい、わたしにはうまく表現することができない。
とにかく講義の中で、あのノートの部分だけ、他とは違うな、と思った。
すごく人間的な感じがした。

結局、どの自然に対しても、わたしには何も言うことができない。
講義で紹介された考えそれぞれに、納得させられた。
自然はそれだけ、幅も広く、とにかく大きなものなのだと思う。

わたしにとっての自然は、なんとなくわからないもの。です。

06TA325F 土本研究室 善田健二:

 今回のテーマである「自然」は、一番身近な存在であると共に、一番理解しきれていないものなのではないかと思う。坂牛先生の言うように、「自然とは自分が制御できない何か」と感じる。人は良いのか、悪いのか自然を理解し、コントロールしたり、自然を創り出そうとしたりとよく考えている。フィラレーテの試論にあるように、ウィトルウィウス的な神話によって、建築の始まりは、人類の最初の「自然な」状態に結びつき、模倣(ミメーシス)をすることで自然を理解しようとすることにより、建築の初発を見出すことができると言えるのではないか。また、建築の歴史とは、自然の畏怖や恩恵を受けたことに対して、人が考え、何らかの解答を建築に反映した歴史であったと言い換えることもできる。そんな中、19世紀後半では自然の拒否がなされた。しかし、一度は自然から遠ざかった建築も今では、自然を再び見直し建築を行う上での一つの対象として地位を確立している。

 よって、自然がもし、存在しえなかったならば、建築がここまでのものになりえたかどうかは疑問である。現在でも自然に振り回されることの多い人類であるが、これからも自然とはやはり人が生きていく上では必要不可欠なものであることに変わりはないであろう。しかし、建築は自然を破壊し成立する相対するものであり、自然を完璧に理解し、制御することのできるものではないことにも変わりはないであろう。リチャード・ロジャースの「建築には自然との対立を最小化する必要がある。このためには自然の法則を尊重せねばならない。」同感である。

 ゆえに、自然とは、『完成をみない建築の理想形』なのではないかと、私は考える。

06ta335c 山下研究室 日合絢乃:

自然とは「世界」であると思います。従って、人間の住む世界自体が自然であって、美しくも、怖しくもあるもので、人にはどうすることもできない大きなものです。建築においては造形の手本でもあり、材料でもあり、技術というものも含みます。

世界には有機的なものと無機的なものの両方が含まれています。私たちはこの世界の中で生活をしていることは疑いようのない事実であり、知らない間にいろいろな影響を受けています。真っ赤な夕陽に照らされたピンクと紫のグラデーションがかかった雲や、雪のかかった遠い北アルプスの山々、どこまでも遠い日本海の水平線や、深く茂った森林、身近な例であれば、真っ赤に実ったりんごの木を見たときの幸福感、美味しいお米などの人工のものであっても自然の恵みの中で生かされていて、それによって感動や幸せを感じています。また大きな橋やすばらしい建築物、絵、音楽など有機的、無機的またそれ以外の感覚的なものに関わらず人は自分の経験した世界から得たものによって美を感じることができるのではないかと思っています。

私の自然と美の関係に対する考えと一番近いのはHumeの「観者の知覚の構成物としての自然」やゲーテの「人が見る美の構成は“自然”によって得られる」という考えだと思います。人の経験した知覚によって美が構成される→その人が経験するもの=その人を取り巻くものすべてという意味で世界というものを選びました。

美という観点を除くと自然は世界ということを説明しきれない部分もあります。建築は材料や技術無しには存在できません。物理的な材料や技術は、自分ではどうにもできない大きなものです。結局は自分ではどうにもできない美しく、怖しく、そして時には憎い、絶対的な大きなものということでしょうか。

土本研究室 06TA337K 前田明秀:

 日本は古くから、「八百の神」という概念を持っていた。森羅万象、ありとあらゆるものには神が存在するという多神教の概念である。川にだって、山にだって神が宿っている。今年の秋、はじめて戸隠の奥社までいったが、戸隠の山だってそうした、信仰の対象である。自然の持っている神秘性は、今でもこうした土着的な神の存在に色濃く残っている。これは、日本に限ったことではなく、世界中でみられることである。それほど、人間にとっては自然とは、神がかった力をもったものであった。

 そんな神秘の塊であった山から切り出された木材を使ってつくられた「建築」というものも、やはり元来は神秘的なものであったはずだ。ならば、自然と人工(少なくとも建築)は、元来必ずしも相反するものではないはずである。人だって、建築でさえ自然の一部でしかない。

 しかし、現代社会においては、建物を建てるという行為が、自然破壊と同義であるといっても過言でない。やはり自然と人工の対立の関係が発生するのである。エコやサステイナブルという言葉がこれだけ叫ばれているのにもかかわらず、人はもはや森で暮らしていた過去の生活や考えには立ち返ることができない。環境破壊がこれほど深刻化しても、かつて自然に感じていた神秘性と畏敬の念の半分も理解できていないのである。宇宙船地球号という言葉が生まれたのはいつの頃だったか。

 私の考えはおそらくリチャード・ロジャースに近いのではないかと思う。「自然との対立の最小化」とは、究極的には、建築を神秘的なものに立ち返らせることである。それは極端であるが、最小化するという努力は、ある種の神秘性の復活につながるのではないかと思われる。神秘性は、美しさにつながる。そうした中で生まれたものは、もはや、既存のエコなどといった概念を超越しているかもしれない。もちろん、現代的あるいは未来的なアプローチを持ち合わせたものであって、過去に立ち返るようなものであってはならない。しかし一方で、昔の建物や、概念はその神秘性につながる何かを、持ち合わせているのではないかとも思えてならない。

早稲田大学・立川創平

自然について語る言葉を持っていないような気がするので、まずは始原の建築について考えてみたいと思う。

フィラレーテやロージエは、始原の建築を木の幹で作られた素朴な小屋とし、そこに構築の原則を見た。これは藤森照信が建築の起源を、人類が石を積み上げた時だとしていることと通じる。その素材の違いは、自然を異なる素材で模倣したことと関連付けて考えられるが、ここではとりあえず問題にしない。重要なのは、彼ら「構築派」の人々にとって、始原の建築は自然の中に何かを構築することと同義であったことである。

一方、ゼンパーは空間を囲うことを始原の建築と考える。ゼンパーはその上で自然と建築の関係を切断する方向に向かうが、ここでは始原の建築に対する考えのみを問題としたい。ゼンパーの立場をとれば、例えば花見で美しい桜の下にシートを敷くことだって、建築である。シートは領域(=空間)を切り取り、座ることの出来る場所を作るのである。つまり始原の建築は必ずしも構築的なものである必要はない。

これは藤森照信に反論して、阿部仁史が建築の起源を、人類が洞窟の中で居心地を良くするために砂を敷き詰めた時だとしたことに通じる。あるいは隈研吾が『反オブジェクト』や『負ける建築』において、建築の環境との切断を批判したこともこの立場に近い。彼ら「領域派」の人々にとって。建築は自然の中への構築ではなく、自然とその中に存在する身体とを緩やかに繋ぐ境界である。

ではここでそれらの始原の建築と、自然との関わりについて考える。

構築派の人々にとって、自然は人間と対峙する絶対的な存在である。一方領域派の人々にとって自然は建築という行為を通して身体と対話することのできる相対的な存在である。どちらかと言えば僕の自然観は後者に近い。

確かに建築を考える時、自然は絶対的な存在として君臨しているように思える。けれどそれは人が自然を克服すべきものとどこかで考えているからではないだろうか。つまり自然はそこに向かう自身を映す鏡のような存在ではないだろうか。もしかしたら、好きだよ、と言えば好きになってくれたりするんじゃないだろうか。

いろいろ考えたのだけれど、後半まとまらないままですみません。

坂牛研究室 M1 片岡篤史:

坂牛研究室 片岡篤史

私の考える自然は絶対的なものであり、その自然を建築においてある種のフィルターとして用いているのではないだろうか。

まず、自然そのものを考えたとき、具体的な例として海・山などといったいわゆる自然が思い浮かぶ。これらは私たちの周りを構成する絶対的なものであり、批判することはナンセンスではなかろうか。ここに、自然の絶対性を感じるが、一方でその解釈については一義的とはならならず、自然を肯定する立場もあれば、否定する立場もあるということは付け加えておく。そしてそのような考えを、過去においては同じく絶対的な位置づけをされていた神の存在に重ねていたのではなかろうか。

では、そのような自然と建築との関係を考える。ここで建築は時代毎、建築家毎に概念が異なるものであるが、その異なる概念を生み出す際に、自然がフィルターのように作用しているのではなかろうか。自然の解釈は多義的であるが、その位置づけが絶対的であるため、自然をフィルターのように介していろいろな建物が生まれてきたように感じる。例えば、風という自然の要素のフィルターから生活における通風や窓といった概念に通じていると解釈を加えることができるのではないか。また、雨から身を守ることから屋根の概念が生まれたように考えたとき、原初的にはその雨を斜面を用いて受け流す方法をとったのに対し、19世紀後半モダニズムの時代においては、技術の進歩からも陸屋根に取って代わり、ひとつの自然に対する対峙の姿勢とも取れる。このように、建築の変化に自然がフィルターのような役目を担いながら関わっていると思われる。

自然の存在感の大きさとその解釈の多義性の影響が強く、授業での内容を批判するような考えに至らないのが、自分として不甲斐ない部分も感じるが、それは同時に自分にとっての自然とはその存在の大きさを再認識させるものであった。

山崎政希 06TA349C 土本研:

建築において「自然」といわれれば、建築物の素材であったり、雑誌に掲載されているそのロケーションなどであった。建築家で言えば、藤森照信は勿論、隈研吾や内藤廣とか。そうでなくとも、北欧の建築とか…。雑誌等で視覚的に見られるものに対して「自然」というものを意識していた。

ただ、講義中の「自然」は「美」であったと個人的には理解している。なので、私の「自然」とは「これ!」である。

Hume,D「美はもの自体にある質ではない」
この英国経験論にはしっくりきた。当然といえば当然なのだろうけれども、観者によって美は異なるのである。

個人的には好き嫌いはあまり無い方である。食べ物も、映画も、音楽も。ただ、正確に言うならば、、好きなものは大体決まっている。それも、昔から変わらず、同じものばかり好んでいる。そして、それらは一目ぼれ的感覚で手に取っていたり、メニューを決めていたりする。建築やデザインにおいては尚更そうである。「これ!」という、‘好み’に近い感覚が私の自然なのだろう。そして、それの何処が、どのように良いのかはうまく説明できない。経験からは「なんか違うな〜」の方が多かったりするが、それは私自体が美を選んでいるからなのであろう。

生まれや育ち、見たり聞いたりしてきたもの。自体の美は自分を形成してきた環境によるのであろう。その環境はその人にとっては自然な存在であったに違いない。

では、万人にとっての美は存在しないのか?
ダヴィンチは限りなくそこに近いのかもしれない。しかし、これだけ多種多様にモノが出回る時代には、多種多様な美が存在するので難しいであろう。ただ、個人的な美ではない、万人が美と捉えることができる「自然」があるのではないかとも思う。それは崇高に近いのかもしれないが、人間が本能的に持ち合わせ、環境によって変化しない「自然」もきっとあるのではないだろうか。

西成田 由:

私は、自然とは全ての根源であり、崇高すべき存在であると考えている。私達人間は、地球上で自然により生かされている。そして、自然の中で暮らしている。自然が豊富な田舎だけでなく、都会でもアスファルトの下は自然が生きている。自然界では、食物連鎖により弱肉強食の世界が営まれており、私達人間もその一員である。生物は生活を営みために、自然の中に住処を作る。建築物、すなわちそれは、人間が自然界に構築した住処である。住処には当然、自然に存在するものが使用され構成されているが、人間が使いやすいように加工されたものが多く使用されている。コンクリートや鉄骨等の構造物から外装や内装などである。自然は常に変容を続けおり、次第に成長していく。更地だったところが、しばらく経つと野原になっているのが良い例かもしれない。このように自然は変容を繰り返すのに対して、人間が作った住処は変容を伴わない。変容を伴わないと言っても、全く変容が無いわけではない、唯一の変容は劣化であろう。建築物は、自然界の中に構築された時、成長を止める。木材などは生きているとは言われるが、少なくてもコンクリートや鉄などの構造物は劣化していくのみである。しかし、建築は変容しないが故に、その時代の姿を残し続けることが出来る。建築の意義とはそこにあるのではないかと考える。

話が若干それてしまったが、自然と言われて真っ先に思い浮かべるのは、山や田舎など、自然が豊富といわれているところである。規模が小さい自然は不思議と自然と認識しない。これは自然というものが、巨大であると無意識に考えているからではないだろうか。人間は自然から生まれ、そして自然により生かされている。自然の力の前では私達人間の力など、当然無力である。自然は絶対であり、崇高すべき存在である。

言い方を変えると、自然にはもうひとつの意味がある。それは、意識しない・本能による現象や行動である。これは、直感に近いものといえるのではないかと思う。直感でひらめいたことは、説明しろといわれても説明が出来ない。自然に思い浮かんだことも同様である。説明できないこと、もの、これら全ては自然といえるのではないだろうか。

ushi:

今回のお題は抽象的なだけに書き始めるとかなりの分量になるだろうし、普段自然なんて意識していない人にはとても手に負えない代物である。

サーと読んでみて、ああこの人は自然をいつも考えているなあと思ったのは森川君。内容は賛同できない部分もあるが、問題意識と説明の仕方が明快である。文句無く坂牛賞である。また山田君も大分力がついてきた。4年の時サスティナブルで卒論設計をやっただけあって言うことに厚みを感じる。またゆっくりとした時間と言う表現も良い。民家再生の本質がそこにあるという捉え方も好きである。しかしもう一つ建築の具体に繋がるヒントでも書いてあると嬉しい。まあもう一息かもしれないが、かろうじて坂牛賞を差し上げる。

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2006年12月06日 16:01に投稿されたエントリーのページです。

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