オペラシティギャラリーで「ホンマタカシ・ニュー・ドキュメンタリー」展をやっている。ちょっと前に美術手帳で特集されており平倉君の批評が面白かった記憶がある。その時は金沢21でやっていたのだが、東京へ巡回してきたので覗いてみることにした。Tokyo and my daughter と称して人の娘を写していたり、widowsと称して静物写真だったり、見るモノをはぐらかす。そんなホンマの見せ方を美術手帳で平倉はホンマの狂気と呼んでいた。ものの同一性が消えていくこと。あるいは消してしまうことそれを狂気と呼びホンマの裏の側面と言う意味でホンマBと呼称していた。そんなホンマBを感じようと思って見に行った。しかし最初の方のdaughter, widows, togetherは全く僕には面白みのないものだった。もちろん狂気なんていうものさえ感じないただの写真である。もっと言えば表題と中身のずれが姑息であるし、妙に技巧的。昔のホンマはもっと素直にいいなあと思えたのになあと思った。が、最後のtrailsで少々違うものを感じた。これは知床で鹿狩に随行した時の写真である。メートル角の大きな写真が10枚近くあるのだが、どこにも鹿はいない。あるのは雪上の血だけである。しかもよく見るとこれが絵の具にも見える。ご丁寧に赤い血の色をしたドローイングも壁にぶら下がっている。
なんでこれが気を引くのかと考えてみた。それは平倉が狂気と言っていたことなのだろうか?確かにある意味狂気である。ただ平倉が言うような同一性が消えるなんてかっこいい言い方で表現するべきこととは思えない。何て言うか平気で、素知らぬ顔をして嘘をつくやつの不気味さと言うようなものなのである。マジで大仰な表現をしてさあ見ろと言いながら、嘘という不気味さである。