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2011年05月28日

リヒターとトゥオンブリー新作エディション展

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六本木ピラミデ3階WAKO WORKS OF ARTでゲルハルト・リヒター、トゥオンブリー展が行われている。リヒターはガラス上に多色のラッカーの混合を表現。シリーズ作品で全部で10くらい並んでいる。色のついた地盤の断面のようである。一方トゥオンブリーはチューリップをマクロを使わず接写してボケとピンの臨界を表現。これも全部で20くらいあるだろうか?とてもきれいな黄色である。
それにしても、20センチ角くらいのリヒーター作品が300万円台で同じ大きさのトゥオンブリー作品は200万円台とは。

2011年05月22日

路上

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国立近代美術館の2階で「路上」という展覧会が行われている。収蔵品+アルファで路上というテーマに合致する作品が展示されている。道というのはなかなか興味深いテーマである。岸田劉生の「道路と土手と塀」や東山魁夷の「道」など。しかし圧巻は道のファサード写真を撮った絵巻物のような二つの写真集である。一つはエド・ルシェー『サンセット・ストリップ沿いのすべての建物』1966年もう一つは木村荘八『銀座界隈』1954年である。二つを比べてなるほどと思ったのは、サンセットの方が道自体かなり長く、そして建物が低くて横に長い。だいたい2階建てが多い。そして空き地が多く緑も随所に見られる。一方銀座は短い道に小さな建物が沢山並んでいる。高さはサンセットより気持ち高い気がする。もちろん空き地は無いし緑は殆どない。
という印象は今から半世紀前のことだが、恐らくその印象は今も変わらないと思う。サンセットを車で飛ばすと高いのはパームツリーだけで空は確実に銀座より広い。ストリートの印象は空の広さと緑の量に大きく左右されるということだ。
ところでこの絵巻物のような長―い写真集を展示しているベニヤのケースは西沢徹夫君のデザインだそうだ。毎回素敵なディスプレイに感心する。

2011年05月03日

ホンマタカシB見たぞ

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オペラシティギャラリーで「ホンマタカシ・ニュー・ドキュメンタリー」展をやっている。ちょっと前に美術手帳で特集されており平倉君の批評が面白かった記憶がある。その時は金沢21でやっていたのだが、東京へ巡回してきたので覗いてみることにした。Tokyo and my daughter と称して人の娘を写していたり、widowsと称して静物写真だったり、見るモノをはぐらかす。そんなホンマの見せ方を美術手帳で平倉はホンマの狂気と呼んでいた。ものの同一性が消えていくこと。あるいは消してしまうことそれを狂気と呼びホンマの裏の側面と言う意味でホンマBと呼称していた。そんなホンマBを感じようと思って見に行った。しかし最初の方のdaughter, widows, togetherは全く僕には面白みのないものだった。もちろん狂気なんていうものさえ感じないただの写真である。もっと言えば表題と中身のずれが姑息であるし、妙に技巧的。昔のホンマはもっと素直にいいなあと思えたのになあと思った。が、最後のtrailsで少々違うものを感じた。これは知床で鹿狩に随行した時の写真である。メートル角の大きな写真が10枚近くあるのだが、どこにも鹿はいない。あるのは雪上の血だけである。しかもよく見るとこれが絵の具にも見える。ご丁寧に赤い血の色をしたドローイングも壁にぶら下がっている。
なんでこれが気を引くのかと考えてみた。それは平倉が狂気と言っていたことなのだろうか?確かにある意味狂気である。ただ平倉が言うような同一性が消えるなんてかっこいい言い方で表現するべきこととは思えない。何て言うか平気で、素知らぬ顔をして嘘をつくやつの不気味さと言うようなものなのである。マジで大仰な表現をしてさあ見ろと言いながら、嘘という不気味さである。

2011年05月01日

下薗詠子「きずな」

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コニカミノルタギャラリーで今年の木村伊兵衛賞である下薗詠子さんの「きずな」が展示されている。きずなはもちろん絆であり氣繋である。気持ちが繋がるということである。写真はすべて人物像であり、ひとつだけリストカットされた手だけが写されていた。写真家と被写体の間に気が通ずると言うのは当たり前のことなのだろうが、今日までそういう気持ちで人物写真を見たことは無かった。そういう気持ちで人物を撮るとなると、お互いの気持ちがスパークするような瞬間にシャッターが切られるのだろう。下薗さんの写真はそんな興奮が伝わるものである。