小谷元彦展
森美術館で小谷元彦の展覧会が行われている。展覧会のタイトルである「幽体の知覚」とは目に見えないものを見えるようにするということのだと音声ガイドは言っている。
会場最初に上の写真が並んでいる。そもそも昨日の日曜美術館にこの写真が紹介されていたので見に来る気になった。それもテレビでこの写真の説明を聞いたから。その説明とはこうである。かわいい女の子が手にしているのは潰れたラズベリーである。人間は小さい頃は視覚に映る像にではなく体に感じる物と戯れていた。それが大人になるとそうした楽しみから遠ざかる。と、説明はなされる。
なるほど彼にとって触覚と言うのが目に見えない物というわけだ。まあそれは展覧会のコンセプトとしてうなずける。でも僕が面白かったのは、それを表現するテクニックの部分。触覚的問題を扱おうとするとどうしてもそうした物質性を前面に押し出した「もの」を強調するのだが、小谷の方法はその物質性を見落としそうなくらい小さく、しかし衝撃的に表している。そして、むしろその物質性を感じ取る感性(少女のあどけなさ)の側を表現しているところが新鮮だった。
そんなことを思いながら、この場所に最近アート好きになった娘がいたらどう思うだろうか考えた。そして娘の感性を基準にするとアートが3つに分類できるように思った。先ずは娘の想像力をかきたてるヒントが少ないアート。こういうアートはこちら側の知識が想像力を補完することで成立つ。この女の子の写真はそういう類である。だから質料性とか幼児性とかいう知識がない娘にとってこの作品はちょっと分からないかもしれない。あるいは違う切り口で興味を持つかもしれない。一方、現代アートのかなり多くのものは(小谷のものも含めて)そうした知識や興味がなくても想像力を煽るヒントが山のようにある。言ってみればディズニーランドのアトラクションのように分かりやすく刺激的なアートである。こういう類は娘も大好きである。とても分かりやすい。一方古典と呼ばれる美術は古典の知識か、アートのテクニックを習熟しようとしたもので無ければまったくつまらない。あれは謎解きであり、超越した力に驚く場なのである。そして超越した力は自分がそれを多少ともなり経験しないと分からない。だから娘は嫌いである。