青木淳とピーター・メルクリ
数日前から近代美術館で青木淳とピーター・メルクリの展覧会が開かれている。そこでオープンの日にそれを覗いた。大量のメルクリのドローイングと大量の青木さんの模型が展示されている。メルクリのドローイングはプロジェクトとは何の関係も無いもののようである。言ってみればコルビュジエの絵画のようなものだが、それでも対象は建築だし、A4の紙にマッチ箱くらいの大きさで描いているのだからこれを絵画と呼ぶのははばかられる。では建築が対象なのだから何を表現しようとしているのか分かるのかと言えば、これば分からない。わざとか本気か分からないがドローイングが思いっきり稚拙なのである(と見せているのである)。一方青木の模型は40個近くある。これらはひとつのプトジェクトの進捗過程を示すものである。しかし全て1/100模型でありそれ以外のスケッチやディテール、内観の模型などは展示されていない。プロジェクトの進捗に沿って並べてあるし、そこに青木さんのコメントも載っているのだからそのストーリーが分かりそうなものなのだが、こちらもやはりわからない。何故分からないのかと言うと、Aの模型からBの模型へ移るときに青木さんの説明がなんだかよく分からないからである。理路に沿って展開する意志を放棄しているからである。
なるほどなあ、二人を並べて展示するのは、そうした無目的的な建築の創作というものを示したいということなのかあ!というのが両方見ることでおぼろげながらに感じ取れる。それはまさしく青木さんのものの作り方なのだろうから、その意味でこの展覧会の目的と展示は見事に合致しており見るものに伝えたいことを伝えたということになる。
ここまでは展覧会評のようなものである。一方もう少し私的な感想がある。それは青木さんの建築の作り方への憧憬というようなものである。つまりさっき言ったように、AからBへ移るときのロジックの拒否のようなものに対する憧れである。憧れているなら行動に移せば良いではないか。ということになるのだが、どうもこれは簡単なようで難しい。事務所であろうと大学であろうと、そうした作法は自分の内面では予測可能なのだが、人に託す状況においてはまったく予測不可能なことになってしまうから。それはそれで不安なことである。そんな弱音を吐露しても仕方ないのだが、、、、
つまり青木さんの創造というのはゴールのないマラソンを延々と走るようなものである。そして誰かが「止めたら」という時に止まり、そのゲームが終わる。そんな感じなのである。