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視覚の変容

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東京都庭園美術館で「建築の記憶」展が1月26日から行なわれている。建築が一般の記憶の中に継承されていく重要なメディアとして写真をとりあげ展示している。日本で最初に撮影された建築の写真から現代の建築写真まで全四百点の写真を7つに分類し解説している。その分類は次のようなものである。
1) 日本最初の建築写真そしての城
2) 明治期の洋風建築、
3) 建築史学構築のための写真
4) 分離派における初の建築家の写真集、
5) 戦後の設計コンペの模型写真と実物写真、
6) 桂離宮などの日本美の再発見、
7) メディアテークなどの現代建築写真。
1)から3)までは建築物の記録的色彩が強く。資料として保存しておくために写真が使われている。4)は少し建築家の作品集としての主張が表れてくる。そして戦後、写真の中に「建築写真」というジャンルが確立され(建築だけとる写真家が誕生し)単なる記録的色彩から、その建築のエッセンスを読み取る写真家の眼が写真の中に表出してきている。例えば石本泰博の桂離宮などはシカゴで写真を学んだ石本が桂にミースの美を見出している。それゆえその写真の構図は決して記録としての全体形を捉えようとはしない。そうした石本の眼は丹下の広島などをとっても丹下の美のエッセンスを捉える上で建築をあえてトリミングする。不要なところは削ぎ落とすのである。さらに現代建築写真になると建築写真家と言われる人ではない写真家が建築の中に自らの感受した何かを見出そうとする。畠山直哉のメディアテークには数十枚の写真の中に建物の全体形は一枚も無い。そこにあるのは工事中の鉄板の荒々しさ、溶接の火花、工事職人の動き、完成した建物の輝くファサードに見える人影などである。鈴木理策の青森県立美術館も全体形は一枚だけしかない。これでもかというくらい建物の部分のアップが並べられていく。それは建物という形ではなく。建物を構成する表面のテクスチャへのフェティシズムであり、そこに映る光であり、光を制御している環境を表しているように見える。また杉本博司の光の教会は原型をとどめないくらいにソフトフォーカスでおぼろげにひかる十字形だけが写真の中に浮き上がる。もはや実体としての建築ではなく、建築から受けた印象の記述である。もちろん写真の二つの大きな特質である「記録性」と「表現性」は常に写真の中には並存するはずで、これからの建築写真から記録性が失われていくことは無いのだろうが、一般の現代人が建築を見る眼の中にこうしたすぐれた写真家が提示している視覚的特質が組み込まれているだろうことは想像に難くない。そしてそこから逆に建築を作る眼も醸造されていくのであろうと、一連の写真の流れを追いながら感じるのである。


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