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2007年11月24日

ムンクの装飾

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フレイアチョコレート工場社員食堂内部 ムンク展カタログp150より

その昔ムンクの展覧会に行った記憶がある。有名なあのメランコリーに満ちたおどろおどろしいタッチはよく覚えている。のだがムンクが好きなわけでもない。だから今回西洋美術館のムンク展に出かけたのは彼の絵が見たいというよりは彼の絵画が装飾であるというキャッチフレーズが気になったからである。
ムンクの絵画は多くがどうも壁画として室内装飾として描かれたようである。ムンクはフリーズ(古典建築の帯状の装飾)という名のついた連作壁画を描くのである。それらを自分のアトリエの壁面上部に帯状に並べたり、展覧会でも壁面上部を帯状に白い壁にしてそこに連作を展示するという方法をとったようである。こうした建築内装装飾としての絵画を描くことを彼はパリ滞在中に学んだそうだ。
まあその理由はどうであれ、絵画が建築内装という位置づけで考えられていたことは興味深い。つまりそれまで単体として描かれていたタブローが複数の意味の固まりとして考案され、更にそれらが並べられるときの全体のデザインの構成も緻密に検討されているのである。例えば帯状に並べられたときにタブローの外側に木の模様を全体を統一するイメージとして描くことが検討されたスケッチも残っていたりする。
話はムンクとは離れるが、建築の一部にこうした建築とは異なる何かが張り付くということの意味を考えてしまう。古典建築のフリーズならばそれは建築の一部なのだが、絵が帯状に張り付いたらそれは建築の一部とは言えない。しかしてそれは悪いことなのだろうか?モダニスティックな純粋自律主義で考えればそれはよしとされないところだが、タブローがぶら下がらないで白い壁面にフレスコ画のように帯状に描かれていたら?あるいは室の一部に隣室に向かって大きなガラス窓がありそのガラス窓の向こうに大きな絵画が見えていたら?それもある意味の壁画であり、装飾なのだが、そうなるとタブローがぶら下がっているのとは少し意味合いも見え方も変わってくる。フリーズの構成を少し変えるだけでなんだか凄く魅力的な空間が作れそうな気がするのだが。

2007年11月12日

エスキス模型

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これは横浜のみなと未来地区のホテルがあるあたりの模型写真である。20年近く前にあのあたりにまだ建物が一つも無い頃、あの突端のホテルと会議場と展示場は日建内で社内コンペになった。3チームがそれぞれの案を作成。我々のチームの最終案がこれだったように思う。ここにくるまでにさんざん模型を作った。構造アドバイザーに木村俊彦氏が来られ打ち合わせを行なった。彼はよく「金さえかければできないことは無い」と言っていた。やはり構造の合理性とは経済性なのだろうとこの頃思った。我々の案は社内コンペに勝利したのだが、実施設計は違うチームがやることとなりホテルの形がだいぶ変わった。一昨日の講演会のために日建時代の仕事をひっくり返していたらこんな写真が見つかった。建築は基本設計一歩手前くらいの模型がいつも一番理想的でそれからそれを実現させるための様々な要件を形を壊さず入れ込んでいくのが大変なものである。

2007年11月04日

SPACE FOR YOUR FUTURE

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東京都現代美術館でspace for you future展が行なわれている。建築からアートまで幅広いジャンルの作品が展示されている。巷のポスターなどではタナカノリユキのerikaが使われている。沢尻えりかの100変化という作品である。
作品のジャンルの幅広さが展覧会を散漫なものにしそうなのだが、そうでもない。そう感じるのは空間がテーマだからかもしれない。全体を見渡し印象的だったのは石上純也の四角い風船。東現美の吹き抜け中央ホールに巨大な銀色の四角い(と言っても立方体ではなく変形した直方体である)物体が浮いているのである。なぜか少しずつ動いている。カプーアを髣髴とさせる巨大彫刻だが、もっと軽やかである。巨大なものがひどくゆっくりと動いている。フセイン・チャラヤンのledでひかるドレス。普通のただのスカートが点滅している。カールステン・ニコライの映像インスタレーション。空気中に霧を噴霧してその中に音と光を投射している。光はゆっくり動いている。ここにもスローな流れが感じられる。AMIDアーキテクチャーの鳥の羽で覆われた建築。鳥の羽がふさふさと揺れているように見えてくる。
こうしてみると興味深く感じた物には何か時の流れと動きを感じる。そもそも展覧会のテーマであるSPACE、空間はそう簡単に動く物でもないのだが、この動くはずも無い物が動きを髣髴とさせるときわくわくするものが湧き出てくる。