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スキン+ボーンズ

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昔のお姫様のスカートのようにふわっと広がったスカートとか少し大げさに首に巻きつけた大きなマフラーなど、少し自分の体の形を変えて見せようというファッションがある。ボディコンシャスとは逆の発想のそうしたファッションは女性だけではなく男性にも時として流行る。そもそも、歳をとって体形が崩れてくればいやおうなしにそういう服を着ることになる。服の形とは体に纏わりつくものだから、その体の線からの距離の関数のようなものである。一次関数的に体の線がそのまま出ればボディコンである。一方2次3次関数的にもっと不規則な距離を作り上げている服も多くある。コムデギャルソンの綿がたくさん入った服は印象的である。まるで体中に巨大なこぶが出来たようになる(上図)。フセインチャラヤンの数え切れないほどの花びらで出来たように見える服も既に体の形が見えていない。何か彼らの意識の中には体の形に対する疑惑があるかのようである。体形より美しいものが存在しているはずだというような信念と言ってもいいのだが。
服にとって体形はひとつの基準であるのと同様に建築にとってもボディに当たるものがある。それは体同様その建物の必要最小限のスペースのようなものである。その必要最小限のスペースを包みこむことで出来る建築はボディコンファッションのようなものである。それはそれでさぞかし美しいものだろうと想像する。機能主義とはそんなものを標榜しているであろうが、徹底してその信念を貫いた建築はありそうでないものである。また一方でそうしたボディ(必要最小限)を鼻から疑っている川久保のような建築家だって多くいる。花びらが重層するような建築はきっとそういう疑惑から出来ている。
ボディから離れたラインはある種の偽装。であると同時にゆとりであり、リラックスでもある。建築にもそういうことがある。かつかつのプランニングの緊張感に比べてリラックスしたプランと言うものがあると思われる。
国立新美術館で今行なわれている「スキン+ボーンズ1980年代以降の建築とファッション」を覗きながらこんなことを感じた。

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