コルビュジエ流行
生誕120周年という理由のせいかコルビュジエが巷に溢れている。美術手帳、ユリイカ、もうすぐDETAIL JAPANで特集が組まれ、そして森美術館ではコルビュジエ展が行なわれている。かく言う僕自身がDETAIL JAPANにコルビュジエの現代的意義のような文章を書いているのだから、その片棒を担いでいるのだが、どうしてそれほどコルビュジエ?と思わないでもない。
いやつまり、僕自身は僕なりにコルビュジエの現代活用法を自覚しているのだが、それは僕の個人的問題だと思っていたのである。しかし、これだけ巷を席巻しているのを見るとどうも個人的な事柄ではないのだと感じてきたわけである。
コルビュジエ展の企画をした南條史生はコルにはモダニズム的思考とともにそれを超える、あるいは矛盾する多様性を包含する思考(人間的思考)が内在していたという点を認め、それが現代に繋がると指摘する。それは多分その通りで僕もそれには共感する。大局的には。
南條氏はその意味でコルはルネサンス的とも述べている。そうかもしれない。僕がチームA0でジェフリースコットの『ヒューマニズムの建築』の翻訳を開始したときに、この書の現代的意味は何?と問われそれは「人間主義」と言ったら皆が笑っていたけれど、そこにはこの南條氏が言うような意味での人間主義の現代的意味が思い浮かんでいた。
さて何はともあれ、森美術館のコルビュジエ展を覗いてみた。ギャラリー大成の全面的な協力があるせいでコルの絵画作品が多く会場を埋めている。絵画の変遷が正確に建築の変化と連動しているのはあまり気が付かなかった。当たり前のことだろうが面白い。ユニテダビタシオンの実物大モックアップがありこのスペースを体感した。スケールが小さくも無く大きすぎることも無く見事である。天井高2260という寸法が日本人には適当に思われた。アトリエの実物大モックアップもある。ここでひたすら午前中「下手な」(と言われる)絵を書き続けたコルビュジエの精神力はちょっとすごい。
コルビュジエの展覧会なるものは様々見てきた、個人のもの以外でもモダニズムという括りだったり、この時代のアートの一端という形だったり、様々な形で登場するのがコルビュジエである。その意味では今回の展覧会は上記のいくつかの点を除いて僕にとってはさほど目新しいものは無かった。
こんなことを展覧会の感想として書いても無意味であることを承知の上であえて言えば、コルビュジエの現代的価値があるとするとそれはまさにその場での建築との対話の中にありそうである。そんなことは建築なら何だってそうなのだが、特にコルビュジエの現代的価値を考えるなら、そうだろうと強く感じている。つまりチャンデイガールを美術館の模型で見ても何も分からない。あのインド強烈な太陽の下でそして逞しいインド人が往来するなかで感じること。そしてその中であの色と荒れた肌を感じることの中でチャンデイガールは理解できる。きっとカップマルタンもそうなのだと思う。横長連続窓という原則を作ったコルが最後に作った建物には外を見る窓は80センチ角くらいの小さなものが二つしかない。海を前にしたとても景色のいいところなのに。でもそれはそこに行ってみないと分からないことなのである。