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儀礼は国を支えるか?

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今村仁司と今村真介による『儀礼のオントロギー』を読む。
近代の政治学や経済学が国家現象を解くのに省みなかった儀礼という行為に光をあてた。著者曰く「この本の狙いは「儀礼的実践」の観点から国家の存続メカニズムに光をあてる試み」である。とのことである。これまでの国家論というのは「社会契約論的な主権論」や「経済的・政治的階級構成論」で説明しようとしていた。つまりロックやルソーやマルクスのことだろう。しかしそれらだけでは社会の複雑な現象は説明しきれないでしょうというのが今村らの主張である。そこで登場するのが儀礼であり、古代から社会システムがそれぞれどんな儀礼で維持されていたかをこと細かに説明してくれる。狩猟採集時代、首長に率いられる部族社会、王や皇帝の時代、そして近代。各時代にそれぞれ儀礼はあった。そもそも儀礼というのは社会習慣の形式である。そう考えると習慣の無い社会はあり得ず、それゆえ儀礼は不滅であった。著者の卓抜な視点は近代的思考の篩いから抜け落ちてしまったこのような「儀礼」を再考したことにあるだけではなく、それが国家を支える重要なファクタであることを喝破している点にある。
そう書くと「どこにそんな証拠があるのか?」と反論が来そうである。そして証拠はちょっと見当たらない。あくまで印象である。あるいは経験である。
話はちょっと飛ぶのだが、人は必ずや社会の集団の一員である。それは家族かもしれないし、学校かもしれない、歳の如何にかかわらずどこかに何らかの形で所属しているものである。そしてその集団での何がしかの役割を持っているものである。自分の経験で言えば若いころは学校クラブ、大学を出れば、会社、そして自分の事務所を持ちそして今では大学の教員の一員でもある。その中で自分はどのようにその集団の一員をやっているのかを考えてみると、その昔の若かりし頃はなにか力任せにその集団をねじ伏せようとしていた。特にクラブの主将などをしているとそうであった。そこではねじ伏せるための言葉遣いや行動パターンがあったように思う。そして歳をとるとそういう生き方があほくさくなるしうまくいくとは思えなくなる(未だにそういう生き方をしている人を見るとやれやれと思うのだが)。そうなると逆に力関係のヒエラルキーを極力無くしながら集団をリードするとはどのようなことかと言うことを良く考える。そこにはいくつかのテクニックがいることに気付く。そしてそれは今村が述べる権力のヒエラルキーが生まれる前の社会(狩猟採集時代など)に見られた儀礼に良く似たものであることに気付くのである。
そう、自分の行動が儀礼に支えられている部分があるというのが上述の証拠と言えば唯一の証拠である。しかし昨今は考現学や民俗学など日常の習慣を徹底的にフィールド調査した学者たちの膨大な知見が見直されている。もちろん儀礼が見直されているのと同じような風潮の中にあろうかと思うのだが。そうした学問分野で得られた膨大な日常の行為の集積が日常を超えて国を支える文化基盤を作っていると考えるのは極めて自然の成り行きであろうとも思えるのだがいかがだろうか?

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