モネ100連発
連休の始まりだし、天気もいいし、こんな日に美術館に行くと混んでいるのであろうと思いつつも100近いモネを一度に見られるチャンスはそうないだろうと思い乃木坂に向かう。案の定乃木坂はお祭りのようである。外苑西通りは左にミッドタウン右に美術館で人がごった返している。
いろいろ見たいものがあるにもかかわらず敢えてラッシュのモネを見ようと思ったのは既述のとおり100近いモネヒストリーを追いかけられるということもあるが、前々回の「建築の規則」の講義でモネのオールオーバーについて語ったその自分の言葉と本物の整合性を確認したかったからでもある。更に加えて執筆中の原稿でコルビュジエの色について書いており、色の持つ意味をモネを見ながら考えたかったからでもある。
果たして美術館は20分待ちであり、この間のダ・ヴィンチ並みである。入場して最初に飛び込む絵はあの有名な「日傘の女性」である。この絵のポイントは絵の中心にある日傘を持った女性が背景に溶け込んで背景と同化していくように見えてくるところである。本来図である対象化された女性が光の中で背景化していくところである。こうした現象はモネの絵に押しなべて指摘できることなのだが、これだけ明確に一つのオブジェ(対象)が背景化されるのは今日見たモネの中ではこの「日傘の女性」が一番である。
さてこの日傘の女性が示す通り、モネは対象の一般的様相を描いていたのではない。対象のある特定の場所と時間における現象を描いていた。よく言われる言い方をするならモネは光を描いていた、光を描くと言うことは瞬間を切り取るということに他ならない。そしてそれはモネ自身が嘆くとおり困難を極める。それゆえモネは一瞬を目に焼きつけその印象を記憶して描いていた。ルノワールをして目の画家と言わしめたゆえんである。そしてその一瞬に無限の色が散乱し、結果的にはその色を表現したのである。
モネの絵が示すまでも無く建築も睡蓮同様に瞬間に現象するわけである。そしてそれは散乱する色の塊である。ルーアンの聖堂もヴェネチアのパラッツォも色として目に飛び込んでくることをモネは示してくれた。逆に言うと建築に付着している色というのは実に不確定的な要素に過ぎないということも示している。色が瞬間に現象する以上、設計する色と受容される色には埋めがたい溝があるということだ。その差にはある種の関数があるとしてもやはり同一ではなくそれは一つの開放系の上にあるということになろう。
モネから少し話しはずれるのだが、色とともに建築における質料である肌理という属性も実は色と類似の性質を持っている。その視覚的効果は光に大きく作用される。光の強さや当たる角度によって肌理は無限のヴァリエーションを持って現象するであろう。その意味で色も肌理も同質でありそれは設計者がその属性を特定できない。設計者がある色や肌理を選んだからといって、それは設計者が意図するように見えるとは限らないのである。もはやそれは偶然にゆだねられるものでしかないという意味で開放系なのである。
モネを見ながらつくづく思う。設計者が色や肌理の種類をやたらに神経質に細かく決めることに余り意味は無いのではないか?意味があるとすれがそれは色や肌理があるということぐらいではないか?すなわちある開放系の中に建築があるということぐらいではないか?こう言うとやや空しいが、逆に言えば建築を開放系の中におく上で色や肌理が有効であろうことが理解できるのである。