社会構築される建築の価値
様々な世の中の価値はある程度社会的構築の産物である。ということにもはや全面的に異を唱える人はいないと思う。僕が卒論や修士の論文で建築一般紙を取り上げているのも極論すれば建築的価値の創出も社会的に構築されていてその一端を(しかもかなり大きな一端を)建築一般紙が担っていると考えているからだ。
ブルデューの近著『住宅市場の社会経済学』藤原書店2006(原著2000)もそうした観点から書かれた書である。
後書きを抜粋してみよう。
「そもそも住宅市場はいかにして形成されたか。・・・ブルデューは住宅メーカー、国家、地方自治体、銀行、販売員、顧客、など各種の行為者とその『界』の分析」を行う。そして「そこに見られるものは『束縛なき競争にゆだねられた市場』における自由な設計主体による合理的選択などではない。住宅供給の構築においては国家や金融機関が、住宅需要の構築においてはこれまた国家や企業広告などが、それぞれ決定的な役割を果たしているのであり、こうして住宅市場なるものがあくまでも社会的構築の産物であることが語りだされる」
さてそういう全体像は既述のとおりさもありなんであるし、坂本一成氏のその昔の商品化住宅のイメージ調査を髣髴とさせる。
そんな本論の中のとある一つの調査結果にこんなものがある。なかなか面白いので紹介しておこう。
それは「社会的ヒエラルキーが下に行くほど家の象徴的側面よりも技術的側面を重視する傾向が強くなることが知られている」というものである。この結果をブルデューは次のように解説する。「文化的に最も恵まれない者たちが、文化レベルと結びついた偏見から(やむを得ず)開放された機能主義美学とでも呼べるものを受け入れている」。僕の解釈を交えて言い換えるなら、文化的に低いレベル(こう言う言い方はあまり好ましく無いが)の人においては、家の価値を判断する基準がつまるところ使い勝手や耐久性というようなものしかない。ということであり、趣味を云々することには興味が無い。あるいはそうした知識の蓄積がないということなのではないか。
正直言えばそういう人たちは建築家の顧客にはならないので余り正確なところは分からないが、建築家の顧客として象徴価値を重視する人たちにおいてもそこには程度の差がありその点をブルデューに倣って分析してみることも可能なのかもしれない。しかしそれはなかなかクライアントへの礼を失する可能性があるので公にできるものではないだろうが。
話をもとに戻せば、ヒエラルキーが下がるとそういう現象がおこり上がればもちろん逆に象徴的側面を重視することになる。そしてそうした層のなかで象徴価値は構築されていくということになるのである。