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物の表現方法

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建築が質料と形式からできているというアリストテレス以来のあたりまえの考え方がある。しかしそんな質料性が近世の美学、言えばルネサンスのアルベルティからカントを経てすっかりその権利を剥奪されてしまった。近代は言わずものがな形式主義の時代であり、そんな時代に質料性が時たま噴出すると言ったのは谷川渥である。僕はすっかりそんな言葉に魅了されて、やっぱり建築は質料と形式、それに関係を加えてこの3つが建築を構成すると思い始めたのだが、伊東豊雄展で伊東さんも物質性のことを盛んに言っていた。もちろん伊東さんがそんなことを言い始めたのは今に始まったことではなくメディアテークができからぼそぼそといい始めていたわけだ。それがその後彼の一つのテーマとなっていることが展覧会を見てよく分かった。
しかしこの質料性=物質性とは何なのかということだが、これはなかなか奥が深い。展覧会のカタログで多木浩二はテクノロジーと身体という言葉で伊東の建築を捉えている。テクノロジーと身体なんてまあ垢にまみれた言葉だと思っていたが、展覧会を見ながら、伊東の物質性というのはその2つに集約されるなあと改めてこの言葉をかみしめることになった。会場には最近できた葬儀場の屋根の原寸大のモックアップの上を素足で歩かせるという手の込んだ仕掛けがあるのだが、この上を歩きながら足に伝わる感触と失った平行感の中で、ああこれが伊東の言う物質性かと感じた。更にその回りに描かれている巨大なディテール図面をじっくり見ていくと、これらを作ることの大変さが分かる。こんなものそう簡単にはできない。面一サッシュの納まり、層間区画を無くすためのドレンチャー、鉄板パネルの充填コンクリート、曲面スラブの型枠の作製、打設の職工の作業工程、どれをとっても在来の作り方が無い。気が狂いそうである。「血と汗の・・・」なんて俗っぽい言葉が思い浮かぶ。殆どこれは建築界の巨人の星という感じである。伊東さんの軽妙洒脱なあの雰囲気とは全く対極を行く血のにじむような作業の蓄積の上にしかできないことは明白である。
多木がテクノロジーと言ったことは我々建築をやっている人間からすればテクノロジーというよりはもっと原始的な職人技と言い換えた方が適切かもしれない。
こんなことを感じる。つまり昔の名工が彫り上げたとんでもない一刀彫の彫刻のようなものを見たとき、そこには技が見えると同時にその彫られた木その「物」のすごさみたいものをもう一方で感じることがある。伊東のメディアテークの海草のような鉄パイプや葬儀場のコンクリートスラブなどはそうした一棟彫りの彫刻に似ている。とんでもない作る技と同時にその「物」の持つ可能性への畏敬の念を触発させるということである。
物質性を何によって感じさせるのか、奥が深いと言ったのはそこである。字義通りの物質性はではなくその情報の伝達方法にこそ伊東の熱が込められているということである。
つまり身体性もテクノロジー(職人芸)も物質性を伝える手段なのである。しかしちょっと冷静に考えると、この身体性はさておき、テクノロジーとは結局視覚的な形式として現われてくるもの。つまり質料性を目指して形式性が現われるという自己矛盾。果たしてそれでよいのだろうか。そしてこのテクノロジーという未来的な言葉の裏に背後霊のように見え隠れする職人芸という泥臭さ。建築ってそんなもんさ、と割り切ればそれでいいのかもしれないが本当か?と少し疑ってみたくもなる。
もちろん展覧会から受けた様々な印象を全て肯定的に受け止めた上でのあえて言えばという程度の疑問ではあるが、自問自答したくなる問題としてこんな気持ちが湧いてきたということである。

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