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触覚

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竹橋の近代美術館で「モダン・パラダイス」という絵画展をやっている。近代絵画を日本と西洋を並行して同じテーマで並べるという趣向である。テーマは、視覚、触覚、命、他者である。テーマの流れは現代的で分かりやすかった。
この手の通史的な展覧会は美術史を学ぶには都合がいいがその分これと言ったインパクトに欠けるところが欠点かもしれない。しかしテーマはそれぞれとても興味深い。
触覚というのは触視といってもいいのかもしれない。見て触感を得るということである。しかし絵画は所詮は視覚的に見るものだから本当の意味で触覚ではない。見たものを各自の記憶表象の中で自らの触覚の記憶を呼び覚まし感じるということだと思う。ルーチョ・フォンターナの切り裂いたキャンバスやゲルハルト・リヒターの塗り重ねられた油彩、横山操の塔などが展示されている。その画面のテクスチャーがこちらに訴えるのだが、触覚を呼び起こすためには、画面に他の要素、つまり対象が存在しているとそちらに目が行ってしまう。つまり対象が表象されると触覚にま届いてこない。だから触覚のところに展示されているものは非対象絵画だが、横山の塔はよくよく見ると日本の建築の塔が浮かび上がる。しかしそれも最初の知覚からは生じないように配慮されている。よくよく見ると塔が見えるように描かれている。(あるいは表題を見るまで気がつかないのかもしれない)。
リヒターの絵のタイトルは「抽象絵画」である。だからもちろん対象はない。更に言えばその筆触は何気ない。きちんと直線的ではないし、意図的に曲線的でもない、ただ無為に引いた筆の跡が現われている。筆触に思考の痕跡を残していない。そこに作者の意図を感じない。それゆえ触覚的なものだけがそこに残っている。そんな気がした。
「他者」のところでは東松照明の沖縄の山羊の写真に惹かれた。沖縄という場所が僕等本土の人間にとって異国的であるとはもはや言いがたいし、山羊だってそれほど珍しいものでもない。それが組み合わさったところで他者性が加算されるわけでもない。しかし日常とはすこし異なる。しかしだからと言って見たことも無いものでもない。この少しずれた日常、少しずれた非日常、準日常とでも言えるようなこの光景が見るものに軽い違和感を生じさせるのだろうと感じた。

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