ヒューマニズム建築
Jeoffery Scott The Architecture of Humanism をA0勉強会で読んでいる。そもそもこの本その昔ルドルフ・ウィットコウワ-の『ヒュ-マニズム建築の源流』が読みたくて手に入らずヒューマニズムと名の付く建築の本として買っておいたもの。なんでヒューマニズムという言葉が気になったのか忘れたが、今でも実はヒューマニズムという言葉が建築に使われる時の正確な意味が分からないでいる。普通に考えればもちろんルネサンスの中世的神の世界からの開放だから人間主義なのだろうし、もちろんそれが古典研究から始まったゆえに自動的にそれは古典建築研究を指すというのも分からないではない。しかしいろいろと邪推してみたくなる。最初の邪推は感情移入に関係する。スコットの本は1914年に出ている。スコットはヴェルフリンの影響を受けていると自ら語るくらいだから、ヴェルフリンの博士論文『建築心理学序説』は当然読んでいる。となると建築を感情移入として読もうとしている。そしてヴェルフリンの感情移入は建築を人間として擬人化するものである。であるなら、ヒューマニズムの建築とは人間のような建築と言う思いが込められていると言えるのではないか。(だからゴシックのようなおよそ人間的ではない大きさのものは否定的になる)
次の邪推は古典建築自体に内在する人間的なものに関係する。例えばサマーソンの『古典主義建築の系譜』にはこんなことが書いてある「オーダーに関してもう一言述べよう。それらはいつも何か人格に似たものを持っていると考えられている。これは多分、ウィトルウィウスにそのもとがあるようである・・・コリント式は「少女のほっそりした姿」を模したものなのである」。
などなど未だあるかもしれないし、それはそれは山の様にそれにまつわる話があるのかもしれない。門外漢がこんな歴史に頭つっこんで戯言をを吐いているのであれば、お恥ずかしい限りだが。