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フラット

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昨日の世界遺産ドレスデンを見ながら高校時代に使っていた世界史年表と世界史地図帳を眺めていた。ドレスデンがアウグスト一世統治の時代、つまり18世紀、このあたりには小さな公国が群雄割拠していた。それがその後ドイツとして統一されたり、東西に分かれたり、そしてまた統一され今ではeuまである。
その地図をもう少し過去に振り返ればその昔歴史地図帳はそんな沢山に分割されていたわけではない。それが歴史とともに細分化されまた統一されているような状態である。そのうち世界は大陸毎に一つの国になってしまうだろうか?100年経ったら地球という一つの国になるのだろうか?
トマス・フリードマン『フラット化する世界』、日本経済新聞社、2006を読んでいたらふとこんな気持ちにさせられた。
建築・アート界ではスーパーフラットなる言葉が十年くらい前に流行ったのだが、デザインのフラットと社会のフラットは厳然と異なるものであるというのが僕の考えだったのだが、この本を読んでいるとこのフラット概念の社会浸透の大きさに少し驚く。
例えばアメリカの小学生の家庭教師はネットを用いてインドに住むインド人が行っているとかアメリカのit関連のコールセンターがインドにあるとか、と言う例はまだ序の口でこんな話が延々と続く。この本によれば、フラットとは情報を誰でもどこでも自由にダウンもアップもできるという状況のことである。確かに外面的には会社の組織が部長、課長、係長から、スタッフとチーフくらいの差しかなくなってきたことをもってフラットと言うこともあるのだが。職階とは何かを考えてみると、情報の供給量の差なのである。

社会に浸透したこの情報に対する公平なアクセシビリティは社会の物理空間をも規定し始めるかもしれない。

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