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武満展

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最近音楽を聴くときは、自分の時代のものに興味が湧くし、僕の周りの音楽好きの方たちも最先端の音楽を聴いている。
しかしその昔ヴァイオリンをしていた頃はもちろん音楽と言えばクラシックであり、多少現代っぽいものを弾かなければならなくなると、現代音楽という括りになりそういう目で見ていた。そういう目とはどういう目かというと、ちょっとわけの分からない不気味な音楽という目である。
一体そういう風に思うのはなぜだったかと言うと、先ず現代音楽は不協和音が多く楽器が響かないということがあった。ヴァイオリンは一辺に沢山の音を出すのが苦手な楽器だけれど、3つくらいまでは一度に出せる。そのとき古典音楽は和音のルールで曲が構成されていてその和音は波長状共振するので楽器が響く。逆に言えば響かないときは音程が取れていないということなのである。ところが現代音楽はこの和音のルールからずれているので楽器は響かない。ということはあっているのか否かよく分からないのである。音程が取れる喜びのようなものが無いのである。
次にテンポである。ヴァイオリンはピアノと違うからメロディーしか弾けない。左手でテンポを刻むなんてできない。それゆえテンポを取るのに苦労する。練習の時にはずっとメトロノームが動いているし、アンサンブルでは人が間違えようが、絶対に止まってはいけないのである。心の中でずっと時計が動いている。しかるに現代音楽はこの刻みが規則的ではない、しょっちゅう変わる。それゆえこの時間を刻むのに大変苦労するのである。

今日武満徹 Visions in Time 展オペラシティアートギャラリーに見に行きヘッドホンで武満の曲を聴いているうちにそんな昔のことを思い出したのである。どこからとも無く湧き出る音。関係を拒否する響き。簡単に言えば、一つの曲の中での通時的、共時的な形式(時間の分割、波長の重なり)から音を解放したのが僕にとっての現代音楽だったという記憶が蘇ってきた。
ところで展覧会のテーマは時間の中の視覚であり音を見る、美術を聴くということのようである。僕にとっての音の視覚性は正にこうした形式性である。列柱というのがある。これは正に一つの規則性。正確な刻みである。インターナショナルスタイルの一つのテーゼに規則性というものがある。リズムの形式である。柱の上には梁がありそして床がある。これは関係のルール。音のリズムとルールは例えば建築においてアナロジカルにこう視覚化される。建築は正直に音楽の比喩だと思う。こういうリズムやルールが60年代音楽で武満が崩壊させていたのと同時に、建築では磯崎が解体していた。いやいやまだその後も今でもそうしたどこからとも湧き出る建築、関係を拒否する空間というのがあちらこちらで未だに作られ続けられているようにも思う。

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