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ロマン主義

どうもロマン主義は苦手で、それが出てくるとつい迂回したくなるのだが、言葉と建築の講義をしているともう逃げるわけにもいかなくなる。例えば前回の講義truthでは1、ルネサンスの自然としての真実、2、構造的真実、3、表現的真実、4、歴史的真実となる。名前を入れれば自然:ウィトルウィウス、パラディオ、構造:ロドーリ、ロージェ、カンシー、シンケル、ピュージン、ヴィオレルデュック、表現:ゲーテ、歴史:ヘーゲルとなる。もちろん表現:ゲーテに代表されるのがロマン主義なのだが、何故これが苦手かというとその熱く語る言葉にこちらの心が負けてしまうのである。俗っぽく言えばついていけなくなる。
例えば、ゲーテは「ドイツの建築について」という論考を1773年に最初に書いている。これはゲーテ23歳の時の論考であるが、ヘルダーの『ドイツ的様式と芸術』というパンフレットに掲載されたものでドイツにおけるゴシックリバイバルに火をつけた論文である。シュトラースブルク大聖堂について書かれたものである。行ったことが無いからなのかもしれないが、「・・・その気品と壮麗さを眺めるために、何としばしば私は立ち戻ったことか。・・・」とか「・・・黄昏の中で無数の部分が一つの魂に解けて・・・」という心の底から湧き上がってくるような言葉の一つ一つがこちらの心に入ってこないのである。ああ悲しいかな!さてしかしゲーテはその50年後「ドイツの建築について」第二弾を書く。今度はケルンの大聖堂について書くのである。こちらはいささか肩の力が抜けている。(というのはケルンについてはそれほど肯定的ではないからなのかもしれないが、やはり歳のせいで昔ほどの熱い熱情が薄れているという感じがする)例えば「人間が何か法外なことを成し遂げようと企てると、未完なものが我々に迫ってくる。」とか「大聖堂内部そのものも、率直に言えば、なるほど意味深くはあるが不調和な印象を我々に与える。」このくらい理性的な文章なると腑に落ちる。しかしこうなると最早ロマン的では無いわけである。
後者の方が受け入れやすいというのははなはだ時代的である。表現的真実なんていうのは今の時代が最も嫌うような言葉だし、信じられないような言葉であり僕以前に時代がついていけないということなのかもしれない。

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