自由な社会と自由な建築
今日は14度近くまで気温があがったようだが、家の中にずっといたのでその暖かさはあまり感じられずにいた。そう言えば昨日ブックファーストに行ったら人文の階に東浩紀の『波状言論s改』を読解するための参考書を陳列するという妙にマニアックなコーナーがあった。この本は一ヶ月くらい前に読んだもの。鼎談の連続で、東、鈴木謙介を中心に、北田、宮大,大澤という豪華な顔ぶれ。それだけにテンポの速い対話で分からない概念も他出する。そんな人向けのコーナーなのだが、そこに森村進の『自由はどこまで可能か』という新書があり、購入し、読んでみた。リバタリアニズムの入門書である。何故読んだかというとリバタリアンという言葉とリベラルの差が分からなかったからである。本書には分かりやすい図がのっていた。それは二つの指標からできたマトリックスである。一つの指標は経済的自由でもう一つは人格的自由。双方を尊重するのがリバタリアン。前者のみ尊重するのがリベラル。双方尊重しないのが、権威主義。経済的自由のみ尊重するのが保守派だそうだ。なるほどそうだったのか。
建築においても政治と期を一にして自由が尊ばれている。建築で自由の概念は表出できるのかという疑問はあるが、(フォーティーはヒンメルブラウの建物を建築家の構造からの開放ととらえしかしそれは建物の開放ではないと言う。そうである建築家の自由への希求は建築が自由(あるいは開放)の概念を表出することと同義ではないのである)物理的な側面からこうしたマトリックス分析ができないものかと思案した。例えば、建物の物理的ヒエラルキーという指標と機能的制約という指標を置いてみる。そうすると先ず両方の指標が高い建築が現れる。それは割りと普通な秩序正しく、機能的に室が配置された、所謂オーソドックスな機能的建築を指すことになる。一方両方の指標が低いものはミースのユニバーサルスペースのようなものがあり得るのかもしれない。更にヒエラルキーは高く、機能制約が低いものはコンヴァージョン建築(例えば学校が事務所になったと考えてみよう、秩序付けは物理的に高いけれど、機能は決まってない)、最後はヒエラルキーは低く、機能制約が高いもの。これはミースの住宅のようなものだろうか?
うーんまだぴんと来ないのだが、自由度というのは現代建築のかなり重要なファクタでありそれを社会の分析指標を参考に検討してみると面白い分類が現れるのではないかとふと思ったのだが。