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雰囲気的なもの

ベーメの『感覚学としての美学』では美学の対象を拡張しようとしている。それは先ず芸術以外にデザイン・自然へ拡張する。そして次に、それら対象に対する知覚を問題にする。これまでの美学は基本的に対象の「実在性」を問題にしていた。ここで実在性とはそのものの背後にあるイデアのことである。つまり美しい花を見たときにその花が美しく感じるその美しさはどこからやってくるのであろうかとその背後を一生懸命考えることが美学だったのである。それに対してベーメは「現実性」を問題にする。現実性とは今私のこの前に現実にあるそのもののことである。つま美しい花そのものである。(と書くと正に小林秀雄の「花の美しさがあるのではなく美しい花がある」という言葉になるのだが)ベーメのこの拡張の本質はつまりそこに自己が現前しているというところにある。さらにベーメは知覚内容の拡張へと進む。それまでの美学がモノをその外部から対象化したのに対し、自己の主観のあり方を記述する。その最も主観的な状態を雰囲気という言葉で表現する。これは必ずしも対象に左右されるものではないが、ものの演出に左右される場合もある。更にもう少し対象の側にによって「雰囲気的」という概念を措定する。それは物とはいえない「準物体」と呼ばれるものによって影響を受けた主観のあり方をさす言葉である。さてその準物体に挙げられているのが「風、眼差し、声、闇、夜、寒さ、冷たさ」というものである。
さあ前置きが長くなったが、眼差しという言葉がひっかかった。そう僕が「窓」を意識する理由の一つは内外の眼差しの交錯する場と考えるからでそれがベーメ的に言えば雰囲気的なものを作っている。それゆえ、眼差し以外の風、声、闇、夜というのもひどく惹かれる(寒さ、冷たさはちょっとつらいけれど)。これらを建築の中に取り込めないものだろうかと考えてしまう。風は単に衛生としてではなくもっと主観へ働きかけ雰囲気をつくるものと考えると急に面白い。声というのも不思議。闇、夜。いろいろと想像を掻き立てられるではないか。そしてそれが生むであろう雰囲気的なものが何か得体の知れないものへつながりそうな期待がするのだがどうだろうか?

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