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『コルはなぜコルになったか』

ナタリーエニック著、三浦篤訳『ゴッホはなぜゴッホになったか』という本の方法論を用いて例えば『コルビュジェはなぜコルビュジェになったか』を書くとするとこうなる

①何よりも先ずそれはコルに関する本ではないその死から今日にいたるまで、コルに興味を持ったものたちに関する書物である、
②それは作品の特質を説明するための試論ではなくどのようにしてこの特質が後世の人々によって構築されたのかを説明する試みである。
③それは芸術社会学と共通点を持ちながらも、社会学的還元の試みではない
④それは人々によって知覚され議論されたやり方を明確にすることによってその特質にたどり着く
⑤それはコルが合理的機能主義者であったことを覆す真実を発見するにとどまるのではなく、その伝説の構築が果たす機能を理解することなのである。
⑥作品への唯美主義つまり希少性の倫理と人物への常識的社会学主義つまり順応性の倫理との間を探ることである。
⑦コルの発した数々のマニフェストの意味を探り当てることに意味はなく、どうしてそういうマニフェスト(例えば「住宅は住むための機械である」が有名な言葉として語り継がれなければならなかったのかその言葉の機能を理解ることに意味がある。

さてこう書いてみるとある本を思い出す。井上章一氏の名著『作られた桂離宮神話』である。僕の記憶が正しければ、この本はタウトという名を利用して桂離宮を一躍日本の名建築に仕立て上げたその政治的内実を明らかにした本なのである。つまり桂の美にせまるものでもなければ、桂自体の特質の何かを明快にしようとしたものではないのである。

回りくどくなったが、僕がとても興味をもっていることはこういうことなのである。コルはどうして近代建築の巨匠に成らなければならなかったのか?極論すればそういうことである。もちろんこれは現代にも通用する。伊東豊雄はなぜ現代のトップランナーでなければ成らないのか?それには理由があるはずであろう。こう考えていけば。

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