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大きな家の可能性

やっと伊藤君がやって来た。
建築のサイズの話をスケールという観点ではなく、社会的なあるいは構成的な視点からそのプロブレマティックを質すという論旨であったよう思う。そして話を住宅に絞り、こう問う。建築ジャーナリズムは大きな家より小さな家の方が現代建築の問題を多く抱えていると思っているがそれは果たして妥当か?

小さい住宅だけが現代性を抱えているのだろうか?たしかに結果的に現代人は大きな家に住めない。その理由は土地代が高いのと収入が低い。ただそれだけのこと。しかし100人の若手建築家の95人が狭小住宅の設計を余儀なくされていることを考えれば、狭小住宅は現代の建築設計の基本となっているかもしれない。つまり、狭小なところにいかに上手に設計するかが先ずは学ばなければならない技術であり、そのためにはその教科書が巷に出回るであろうし、雑誌もそういうものの方が売れるということになるのは当然かもしれない。しかしそのことを持って豪邸のプロブレマティクを見過ごすわけにもいかない。

さてそうなると大きな家の問題系とは何かということが次に問われるのであろう。そういう仕事は世の中に少なく、だから若い建築家の関心も薄く、もちろん雑誌を買う人たちの大半は狭小住宅を作ろうとして、そういう類例が掲載されているものを探すにもかかわらず、それでも大きな家を世に問うことの意義は何なのか?
それは二つあると僕は思う。一つは小さい家には無いものを示すことである。つまり大きいからこそありうること。例えば考えられないような大きな架構であったり、不思議なくらい広い暮らしであったり、あちら側が見えないほど大きな部屋だったり、すなわちその昔篠原一男が言ったようなことである。掃いて捨てるほどある狭小住宅には間違っても現れないようなコトやモノたちである。
そしてもう一つはその逆である。小さい家にもあるようなものを示すことである。つまり大きさがまったく関与しないようなことがらを提示することである。それはテクスチャの問題とか色の問題とか空間の問題とかつまりは建築の構成とか配列の問題ではなく原質としての何かである。

これらのテーマは現代建築において必然的な問題系である。もしある種の左翼的な問題意識から豪邸が社会的リアリズムに反するというような認識のものとに、豪邸が排除されるとするなら何たるアナクロであり、何たる馬鹿げたことであろうかと首を傾げたくなる。何故なら、確かに冒頭記したように、土地代の高い日本でバブル以降相対的に低収入化した現代人が狭小住宅を作るのは社会的リアリティかもしれないが、それは数の上での話しであり、一方で様々な理由から数は少なくとも大きな家があるのも事実であり、その大きな空間にはそれ固有の可能性とリアリティは保持されている。その空間を数が少ないという理由で排除する理由は建築家としてはこれっぽっちもないからである。

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