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高橋レクチャー

銀座アートフィールドの私の次の先生は詩人の高橋睦郎さんである。この会は私を除けば各界の5本の指に入る人ばかり。すごいものである。演題は「食うと食べる」についてというものだった。その基本には味覚の美学というものがある。これは谷川先生の『美学の逆説』にも書いてあることだが、美学とは趣味に支えられていたのでありその趣味とはtasteであり味覚をも示す。そして、それは趣味論華やかしころヨーロッパが世界を制覇して様々な食文化を持ち帰る中で、新しい食べ物に目覚める時期だったのであり、そのときに口に入れたものを一瞬にして判断する能力が味覚であり趣味なのである。だから味覚は本来美学の根底にあるものなのにもかかわらず、低級感覚として斥けられてきたことが美学の逆説なのだとというのが谷川先生のエッセイの骨子である。

さて高橋睦郎先生のレクチャは「食ふ」と「食べる」の差である。「食う」は生理行為で、「食べる」は文化行為だということを古典を元に説明くださった。くう(食う)はくむ、かむ(噛む)、はむ(歯む)からきており歯でかじりとるという意味であり人間の根源的欲求。一方たべる(食べる)はたまはる(賜る)からきており、神からいただくという文化行為なのだそうだ。

それで現代の食文化を見ると圧倒的に「食う」になっており(それを文学化したのが谷崎潤一郎の『美食倶楽部』だそうだ)飽食の時代であり、貪食の時代であり、これはいつか罰が当たる。食文化を「食べる」にもどすことが必要であり、その目標は茶の湯の一汁一菜だとおっしゃった。

ウィットの効いた冗談交じりの軽快なトークを十分楽しませていただいた。後半一時間は高橋さんの詩の朗読でこれも聞き応えがあった。以前とある詩の朗読会に行ったときもそう思ったのだが、詩集なんて読まないのだが、朗読を聴くのはとても気持ちいい。すっとはいってくるのだ。

最後にこんなこともおっしゃっていた「今日は若い方が多くいるが、若いときは自分はどうなるのだろうかという漠然とした不安で苦しいものだ。自分も25くらいで最初の詩集を出した後スランプに陥り15年くらい詩を書いてはいたが、つらかった。しかし40になって交通事故にあい生死の境をさまよった後力が抜けて素直に詩が書けるようになったそうだ」高橋さんにしてこうなのかとびっくりした。そしてこう続けられた「ただスランプの後に浮いてこれるかどうかはスランプの時に逃げないことだ、逃げた人は絶対に浮かんでこない。また浮かんでくるということはその時代の人に評価されるということで、人は評価されるとうれしいものだが、それは必ずしもその人の力の指標にはならない、たまたま、評価された、たまたまその時代の波長にあったということでしかないので、やはり黙々とやるしかないということだと思う」この言葉は真実をついた素晴らしい言葉であり、私も含めて若いアーティストには心温まるものであった。

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