一人称の美学
篠原一男の『住宅論』をゼミで読んだのだが、改めてこの一人称の書き方にちょっとした驚きを感ずる。篠原は常に、自分の文章においては「我々は」という書き方はしていない、「私」はという主語しか使わないと言ってきている。しかしこの文章は客観性が欠如した主観的な認識の表明には読めない。いや少なくともそう感じる。もちろん、「住宅は広ければ広いほうがよい」とか、「民家はきのこである」というような有名なマニフェストにおける断言は当時の状況に対するプロヴォカティヴ(挑発的)なニュアンスがこめられているのであるが。(しかしそれもそうしたコンテクストを読む時一つの戦略的なゲーム性に裏打ちされているのであるが)そして、そうした言明を除けば、そこでの断言はある種の普遍的妥当性を持って響いてい来るようなものが多い。そしてその妥当性の響きを受け取るとき、一体そうした彼の言明への自信はどこからうまれているのであろうかと疑問を投じたくなる?
そしてそんな疑問が頭を過ぎるとき、ふとカントを思い起こす。カントはご存知の通り、認識能力は悟性が、欲求能力は理性が、快不快の感情は判断力がつかさどるものとする。そしてこの判断力が判定する感情を更に①快適なもの、②美しいもの、③崇高なもの、④善いものと四つに分けている。そして、それぞれの感情の伝達可能性について記している。それによれば、快適不快適な感情は伝達不可能、美しいものは可能、崇高なものは場合よっては可能、善いものは可能としているのである。この判定は現代的な感覚からすると謎な部分もあろうし、そもそも美的なものの範疇は更に拡大しているので、建築の訴求力が美や崇高に限定されないのだが、このカント的な裏づけを持ってすれば、美というものは一つの普遍的な感情であり、それは普遍妥当性を他人に要求できるものなのである。
篠原がカントに精通していたかどうかはあずかり知らぬところであるが、こうした認識論の上に立たぬことには篠原の一人称の美学を了解する道はないように感ずるのである。