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時間

まず最初に、週一ペースをのっけから大幅に大幅に滞らせてしまい、OFDAの皆様ごめんなさい。
すでに坂牛さんにスレッドを6本も立ち上げていただいた中から、ともかく「最初に」と「アートフィールド」あたりについて少し。

「アートフィールド」のレクチュアーで一番私が興味をそそられたのは、「日常性」への接近を語りながらその一方で、建築は竣工後半年もすればいわば空気と化して飽きられてしまうものなのではという疑念とそれに対する空虚感を抱いていると語られていたことでした。「日常性」という言葉からまず普通に思い浮かべるのは(哲学や美学やアートの世界でそれぞれさまざまな定義づけがされているのでしょうが)慣れ親しみ、一々定義の確認もしないような、普通に継続されていく世界・・・というあたりで、建築が空気のように慣れられてしまうという表現はまさに建築が日常化されることの一形態といえそうでもあり、それに対して抗いたいということは、日常性に接近することを拒否する気分につながっていたりはしないのだろうか、と思ったのでした。建築は空気にすぐなりきるほど無力でも(飽きられてもおいそれと取り除けないという点において)無害でもなく、写真や絵画やあるいは音楽や文学が繰り返し鑑賞されるのと同様の作用ではないにしても、時間が経っても喚起され発見されるものが仕込まれて世に送り出され、逆に新築の一瞬が過ぎると反応されなくなるのだとしたら、それは「動かない」「固定的なもの」ということ以外の点に要因があるのではないかと私は考えるのですが、それが建築が日常性に近寄っていないということなのか、日常化しても飽きられないということなのか、私には言葉との関連付けがきちんと整理できていません。坂牛さんのレクチュアーでは日常性とファッション性とで異なる章立てで語られていたことでしたが、建築の竣工後の時間の流れの中で生きられること慣れること飽きられることと日常性について、それぞれの意味の近さと遠さと違いについてさらにもう少し話をうかがえたらと思いました。
また連想の家シリーズやリーテムについても、私は、その魅力は内も外もどちらもそれぞれに日常的なもの同士 (リーテム工場の立地は私自身の毎日からすれば日常的でないわくわくする立地ですが、工場で働く人にとってはおそらく工場の周辺環境として日常的な風景となることと思われ・・・) が、開口部の切り取られ方によって日常的でない隣合わさり方をするところにあるものととらえていました。窓から飛び込んでくる外の世界は、確かにライブで刻々と変化しえるものですが、その建築が飛行船か宇宙船のようにあちらこちらに移動しない限りは、建築の周囲に持続するやはり普通の日常的な慣れ親しんだ世界、ということになるのではないだろうか・・・そういう捉え方からすると、建築の内部が慣れられて死体になりつつあるところを開口部から飛び込む外部の動くものによって延命され続けるという図式ではないのではないかと。 坂牛さんの発想の原点がそもそも上記の空虚感だったとは、ずいぶん捉え方が違っていたのだなと驚きました。

「最初に」は建築のエンターテイメント化と最近増えつつある建築一般誌についてその言説分析についてですね。
建築はつくるにしても壊すにしてもとても大きなエネルギーを要し、色々な選択肢の中から簡単にとっかえひっかえができない状態で存在し、あるいはその存在の仕方を一人では制御しきれないもの、軽やかな身振りとはいいにくいそういう意味では「動いたり変化したりしない固定的なもの」だ、という感覚が、常日頃私の中では払拭できずにかなり強くあります。そのために、ファッションやアートと(あるいはグルメと)建築との間にはいまだはっきりした境界が引かれているようにも感じます。 例えば衣服も料理も音楽もアートにしても、24時間365日同じものだけを選択するということは通常はありえず、気に入らなければ、あるいは、気分や季節や流行に応じて、着替えたり、献立を変えたりできる、取捨選択の自由度がとても高い。 それに対して建築は、実際に住居を得ようとする人と、知の情報として消費しようとする人とにとってでは多少異なるかもしれないけれど、住まいでも働く場でも引越しという形での取り替えも可能なものの、気持ちの赴くままに立ち上げたり消去することはできないし、真向かいにたったあの家、この町並みを今日は見たくないと片付けられるものでもない。構想から竣工までに要する時間に対して周辺の社会状況の変化の方が特に現代は激しいし、完成後に期待されるのも、つくるからには、あるいはつくったからには、とその制作の手間に比例して通常は料理や衣服のそれと比較するまでもなく長い耐久性です。私にとってはつくる対象としても、見たり体感する対象としても、ファッションやグルメと建築とではおよそスピード感も時間軸上での存在のしかたも異なるものに思えています(この感じ方には色々異議もあるかと思いますが。そもそも建築と建物が整理されていないとか・・・)。だからエンターテイメント化といってもファッションやグルメとはまったく違った扱われ方、物差しのあてがわれ方がおのずと発生してくるのではないか、発生するとよいなという期待感があります。その中には時間にまつわるモノサシもあるのではないかと考えます。

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コメント

早々に(延々とビハインドしていたこちらのコラムに対して本当に早々に!)丁寧なコメントありがとうございました。せっかくなのでもう少し続けてみたいと思います。

②建築は録画的で外部はライブ的という対比、というのはそれはそれでわかりやすかったのですが、そのとき、建築の室内側で展開される現象?はライブとはならないのでしょうか。おのずと屋外に比べるとそれこそ建築によってコントロールされた環境下でのものとなるし、反復性も高くなりやすいという意味で、動きはするものの録画的部分に回収されるということになるのでしょうか。これは建築を内部の「空間」もふくめて捉えるか、空間をつくる床壁天井といったモノの方に限定するかでも、また解釈は違ってきそうですが。

③建築について坂牛さんの言う堅固な永遠性を100%信じたり志向したりているわけではないのですが、そういう意味ではなく、たぶん私の場合、いわゆる人の金と土地と時間を使って設計する建築というものについて、少なくとも自分の設計について、クライアントが、音楽や演劇やダンスに対して支払うのと同様の身振りをする事を期待したり、全面的に了解したりしているとは思えなくて躊躇したりする、どちらかというとそんな少し窮屈な責任感やら倫理観的なものから来ているように思います。そんなことは多かれ少なかれ設計に携わるなかで誰でも判断することですから、発想の段階ではいったんそれからフリーになって取り組むか、最初からとらわれるかの差かもしれません。
もう一つ言えば、このコラム中では創作のための論理というより、鑑賞者・「いい」「悪い」の言葉を教えてあげる対象に対しては、時間軸も意識してもらいたいという意識でした。

ちょっと長い返事

木島さんの丁寧な感想ならびに鋭い指摘ありがとうございます。こういう反応をいただくことは情報を発信する側からすると大変ありがたいことです。
さて木島さんの指摘を大きく3つの質問の形にまとめてみました。
①日常性を標榜しながら日常性を忌避する心理とは何か?
②坂牛の発想は日常的なもの同士が日常的でない隣接関係を結ぶことで異化されるということではないのか?
③衣食住といえども建築とファッション・グルメはその時間性において異なる尺度をもつのではないか?
そこでこれらに対して返答したいと思います。
① 日常性を標榜しながら日常性を忌避する心理とは何か?
話しは少しずれますが、今東京行きの新幹線に飛び乗ったところです。車窓からは雪景色の長野の町並みが見えます。どんよりと垂れ込める雪雲の下に広がる家の屋根は白く雪化粧し、ポツポツと光る町の灯は人々の暮らしを彷彿とさせます。世界中どこを旅しても、この夕方の電車から見える町の灯はいいものです。勝手にほのぼのとした生活を想像しているからなのだと思います。風土の中に育まれる人々の生活が凝縮されている映像です。生活と風土から生まれるこうした建物の良さはまさに篠原一男が「きのこ」と呼んだ民家の本質であるような気がします。篠原が何十年も学術的に研究したその対象である民家を一言で「きのこ」と呼び、それは美しいものではあっても建築家が建築を作る上で参考にはならないと切り捨てたその意味は、建築家の職能を背負っていたのだと思います。つまり自然発生的に生まれてきた民家と意識的創作する建築との間にはとてつもないギャップがあるということです。そしてその後それが大きな問題を生むことになるのですが、しかしそのギャップは絶対に埋まらない。埋めようとした建築家はあまたいるけれど最終的にそれは埋まらないと僕は思っています。埋まった時には建築家がいなくなるか建築家という職能は別のものになっているかどちらかです。
さて前置きが長くなりましたが、日常性を標榜するその姿勢はやはり篠原が切り捨てたものを再度掬い取りたいという気持ちです。一方でその日常性を忌避するのはどうしても掬い取れないという諦観です。そうした心情的な自己矛盾がここにはあります。矛盾を分かっていますから木島さんの指摘は正しいし、弁解の余地はありませんが、あえて矛盾を解消しようというところにいけないのが現実でして、その矛盾をエネルギーに建築するしかないのではないかというのがとりあえず、今の気持ちなのです。
さて次
②坂牛の発想は日常的なもの同士が日常的でない隣接関係を結ぶことで異化されるということではないのか?
この質問への答えはyesです。その通りです。でもそう言うと矛盾をきたしそうですね。僕は確かに、建築に慣れると虚しい。そこで慣れないためには常に新しい情報が飛びこんできて欲しい。そのために窓があるという、そういう筋道で説明しました。ということは坂牛の説では窓から入り込むものは非日常ではないかということになるわけです。しかし木島さんの説では窓の外だって住んでいる、あるいは働いている人にとっては日常ではないかということになるわけです。
これは僕の説明上の言葉の使い方が悪いのだと思います。未だうまく言えないのですが、窓の話の場合は建築が日常的で外部が非日常的という対比でもないのです。建築は録画的で外部はライブ的という対比です。ですから、その二組の対義語は僕はパラレルに考えていませんでした。しかし確かに少しパラレルなところもありますね。すこし言い方を考えないといけないのかもしれません。
さて最後の質問
③ 衣食住といえども建築とファッション・グルメはその時間性において異なる尺度をもつのではないか?
これは表題にもなっているくらいでとても重い質問なのですが、少し誤解があります。僕はファッション化する建築を肯定しているわけではありません。価値判断はしていません。ただ世の中がそういう方向へ動いているという風に感じられるのでその実態を分析してみたいということに過ぎないのです。そう言うと話が終わってしまうのでもう少し心に正直に話します。本当に僕は価値判断をしていなかというと、言明してませんが、心の中では少し肯定しています。それは何故なのか?
確かに建築の寿命とファッション・グルメの寿命は大きく異なります。アルマーニが家具に進出してきた時に、彼らには、家具の布地を何十年も備えておくという発想はないのだとインターオフィスの妹尾さんが嘆いていました。確かにに彼らにとっての対象は一年サイクルで現れては消えるものでしょう。しかるに建築はそんなものではないし、そんなことはあり得ないわけです。建築は少なくとも50年くらいはもってもらわないと困るわけです。しかしこの堅固な永遠性を100%信じるのを少しやめてもいいのではないか?この建築のrigidなキャラを疑いたいというのが僕の肯定の気持ちかもしれませんね。(このあたりはでも個人差があるでしょう。僕は音楽をやっていたからそう思うのかもしれません。絵画や彫刻やっている人ならそんな風に考えないでしょうね。)たとえば身近な例で言えばスティーブンホールの可動建具とかだってそうした疑念に後押しされたものだと想像しています。ただそうした割とリテラルな(文字通り)な方法はちょっと馬鹿っぽくて好きになれないのですが、もう少し観念的なレベルで、建築のファッション性がありうるようにも思います。その昔で言えば伊東豊雄がエフェメラルという概念を提示していたころはとても好きでした。
建築が時間的な軸を持っていて、そうした軸の上にある価値を生み出すことはまったく持って同感ですし、それを否定するつもりもないし、それは建築のファッション性となんら矛盾しないと思っています。しかし時間といった時にその長い軸とまったく逆のベクトルで見返してみた時に見えてくる価値をそれがために否定する必要はありません。価値は常に両側にと真ん中に転がっているように思います。

  

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