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銀座アートフィールド

銀座アートフィールドなるレクチャーシリーズの3回目として『SD2005』 に書いたことを主体に2時間ほどお話いたしました。この話の半分くらいは2週間ほど前に早稲田大学で話したことでしたが、今日は時間も十分にありゆっくりと語ることができました。内容はアートと建築の接近を「日常性」「ファッション性」「残された視覚性」という観点から語るというものです。詳細は『SD』を読んでみてください。

たくさんの方に来ていただきありがとうございます。鹿島の打海さん、久保田さんには内容を知り尽くしているのにまた来ていただきました。ありがとうございます。どうでしょうか?建築とアートは接近しているのでしょうか?長田さんは『SD』の中で安易に接近していると言ってはいけないとおっしゃっていたようですが。
事務所から来てくれた木島さん、伊藤さん、渡辺さん、加藤さん、井上さん、有賀さん、ありがとう。建築の創作論は常に未完だと、その時その時の創作論でしかない(なんていうと余りに無責任ですが)ずーと変化し続けるのだと思うのです。止まったら終わってしまう。どうでしょうか?
長野から来てくれた、建築学徒たち松永君、新宮君、工藤さん、武智さん、野原さん遠くまでご苦労様、建築見学やら美術館めぐりなどできましたか?なるべく努力していろいろなところに行っていろいろなものを見るように努力してください。大学の授業とは一味違うものだったと思うけれどどうでしょう?
また勉強会メンバーの天内君ありがとうございます。長い付き合いだけど建築のことをまじめに語る機会も少なく、少しは理解してもらえましたでしょうか?
大学の講義と異なり、本当に聞きたい人でしかもとてもテンションの高い方々の前での話しは少し緊張しました。特に谷川先生の前でアートの話をするのはまさに釈迦に説法というものでなんとも僭越でしたがお許しください。
最後にこういうレクチャーの機会を与えてくれた東京画廊の高橋豊津社長、そしてそのスタッフの方々そしてこのレクチャーの企画をされた谷川先生ありがとうございます。

できれば皆さんのご感想をお聞かせいただければ幸いです。どんな意見でも質問でも結構です。どんどん気軽に書き込んでいただければ嬉しいです。生協の白石さんではありませんが必ずお返事書きますのでよろしくどうぞ。

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コメント

コメントありがとう。

少し種を明かすと、僕が「建築に飽きる」というように思うようになるきっかけとなった本があるのです。それは北田暁大の『広告の誕生』という本です。

去年法政大学のレクチャーで建築そっちのけでこの広告論を紹介しました。この論の面白いところは、一般的な広告論であるテキスト読解をするのではなく、広告という世に氾濫していて掃いて捨てるほど目に付く広告に人は見向きもしないのにもかかわらず、その広告にあるとき目覚める。その契機と原理は何なのだろうかというところを究明しようとしているところだったのです。

これを読んだ時ああ建築だと感じました。これだけ世に氾濫している建築に目覚めさせることの契機と原理。それを知りたいし、それを作りたいとつくづく感じたし、それは既にいくつか作っていた連窓の家でしたかったことなのだなあ。と事後的に反省したのです。

だからもし、こうした原理が窓以外に見つかればそれもいいなあと思っています。

私も先週の銀座でのレクチャーに参加させていただきました。ありがとうございました。
内容が盛り沢山で、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
アートと建築を搦めてのお話という事で、どんな話が聞けるか楽しみにして行かせていただきました。
中でも、私が印象的だったのは「飽きてしまう建築を飽きないものにするために」という話です。「飽きる」というどちらかと言えばマイナスな表現に反応してしまいました。
作品として世に送り出した建築が他の手が加わり、徐々に<生きられる>ことで、当初抱いていた愛着が薄れてくる、そして建築から<家>へと変わっていくとき、飽きてしまうのだという事。
その結末から逃れようと、飽きないためにあの手この手を考えるのが作り手側だと思うのですが、そこで、坂牛さんの切り出した答えは「窓」にあったと。
その建物内部で完結する世界と平行して、建物を取り巻く風景と内部とをつなげる事で、それを回避出来るのではないかと言う事だったと思うのですが、そこが面白いなと感じました。
常に変化する事を使命としている風景、<窓からの眺め>ですが、その活きているものと<生きられている>ものとを混ぜ合わせる事が、何らかの偶発性を生みだして飽きさせなくするのではないかというのは、一つの方法としてあるのだと思います。
そこに、写真の話を絡めてあり、面白い話になっていました。
一瞬の時を残す写真というものに誰しもが惹かれるというのは、自らの周りが常に変化し、自己も変化を止める事が出来ない事において、そのとき一瞬の絵にツ立ち止まり、あれこれ考え思いを巡らす。そこに、何ものからも逃れ、解き放たれた自分の中と、写真との対面という静止を感じられるからだと思います。
また、シャッターを押す側の目的ではない別の部分に面白さを発見するというお話も興味深かったです。そんな偶発的はものにあこがれてしまうのは、「建物」というある種そこにとどまって保守的にもみれるものに携わっているからかもしれません。

G.リヒターの8枚のグレイ・ミラーからなる<8グレイ>という作品を私も金沢21世紀美術館でみましたが、彼の作品は目で見えているものは果たして現実か否かという「見掛け」への問いをテーマとしている一方、W.ティルマンス(彼の作品はオペラシティのギャラリー出観ました)は日常的な風景の一瞬に人の心を振り返らせたり、改めてなんでもない日常というものを、素敵なものだと教えてくれるのだと思いますがどうでしょうか?
日本では、杉本博司が確信犯的な作品でそうきたか!と思わされます。ひたすら海岸線を撮り続けたものから、三十三間堂まで…。図録買ってしまいました。

話がそれました。
とにかく、頭の中でいろいろなことが広がってまとめられませんでしたが、建築するのは楽しいのかなと、じんわり思いました。

杉本さんの写真見は見ましたよ。感想はbbsに書いたので見てみてください。最近bbsは僕が私有化して日記化しています。失礼。

リヒターは伊藤君も見てきたそうなので、伊藤君の感想お聞きしたいものです。私は3年位前にやはり河村美術館でやっていた時に入江君井上君に連れられて行きました。そのときは千葉美術館でやっていたミニマリズムアートの展覧会もはしごするという、濃い旅でしたが。そのとき以来僕もリヒターのファンです。実はあまりそのコンセプトなど知らず、ただその作品の美しさに惹かれているだけの純粋ファンともいえるし、ただのミーハーかもしれませんが。その程度なので彼の作品へのコメントは控えておきます。

さて創作論は常に変化し続けるという話は実は言っておいて何だけれどやはり4~5年続けないとだめなのかもしれません。というのもそのくらい続けていくつか作らないことにはそのコンセプトの有効性は分からないでしょうしねえ。でもずーと変わらないということはまたあり得ないと思うのですよ。だって世の中は変わるのですからねえ。しかしそれを見据えたある程度の普遍性というのもあってこその創作論だからやはり朝令暮改ということでもまずいんでしょうね。

レクチャー、お疲れ様でした。
坂牛さんの話で窓から、建物の内側から建築をとらえ、窓の風景をも建築の中に取り込むことで、時間を内包した空間ができていくのではないかというのは面白いなぁとおもいました。
六本木で開催されている(のかな。。まだ)杉本博司さんの写真に、映画のスクリーンを映画のはじめにシャッターを開き、終わると同時にシャッターをとじて撮影された写真があるのですが、ちょっとそれと通じるのかなとおもってみたりしました。
それから、建築の創作論が常に変化し続けるものではないかということですが、これに関連して。
先の日曜日、川村美術館で開催されている、G.リヒター展に遠路はるばるいってきました。それまでリヒターの作品についてはその作品にこめられた意図などあまり考えず、ただ見たときのそのインパクト(というかなにか心に訴えかけてくるもの)の強さに惹かれていました。
その日はたまたまガイドツアーが催されていたため、そのガイドを聞きながら作品を見て回ることができたのですが、いわく彼は常に「現実とはなにか」ということを問い続け、そして作品を作り続けているのだということなのです。
(ここには彼の生い立ち※東ドイツでうまれ、ベルリンの壁構築のほんのちょっと前に西ドイツに移住、、ようはここで彼自身のイデオロギーの崩壊?が起こったのでした)
作品のひとつに反射率の高い透明な板があります。ここにはこの作品を見る人が写りこむのですが、果たしてこの姿は現実の姿なのだろうか、どうなのだろうか。。それはわからないのではないかといったことが問われているのです。

建築についても同様のことがいえるのではないでしょうか?
その社会状況や場所性を映し出す鏡があると仮定すると、そこに一つ一つの建築が実際出来上がったときに映し出されます。しかしその空間は本当に社会状況や場所性が映し出されたものであるのでしょうか?それはわからない、答えの出てこない問題なのかなと思います。
だから問い続けていくことが必要なのではないでしょうか?

坂牛さんのいうように、創作論というのは未完で、変化し続けていくのでしょうし、また問いつづけていくべきものなのかなと思います。
(感想ではないようなまたしても徒然草コメントになってしまいました..)

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