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「偉大なテキストを見つけよ」

ゴメンナサイ、四週目も慣性で走らせていただきます。だれかバトンを拾ってください。

「偉大なテキストを見つけよ」と渡邊守章氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%AE%88%E7%AB%A0が言っていた。渡邊氏は蓮実重彦氏とともに表象文化論の創始者である。フーコーに師事しながら、能に精通しているというグローバルな思考回路の持ち主である。
さて偉大なテキストとは一体何か?それは自らの思想のよすがであり、不安定な羅針盤のぶれをとめるものであり、自らを相対化できる真に血肉化したテキストだそうである。
そんなものがあるだろうかと省みてみると残念ながら僕にはそうしたものがない。有る気になっているがよくよく反省してみると実はない。知っている気になっているが実は分かっていない。
なんとも影響されやすいというか、思いたったらすぐやらないと気がすまない性格なのか、前からキチンと読みたいと思っていたのに踏ん切りがつかなかったのがこのひとことでやはり正確に読もうと思ったのか、渡邊先生の話を聞いたその足で渋谷の本屋に行きすぐに買った本は宇都宮芳明訳の『判断力批判』だった。そんな古臭い本をとも思ったが、僕の思想的根拠の基礎の基礎としてやはりこれをはずすことはできない。篠田英雄訳で一度読んだので今度はこの単行本でしかも全注釈付で読んでみようと思いたった。
毎朝起きると先ず飯も食わず、顔も洗わず、この本と向き合い10ページほど読むのである。それはとても良い方法である。このての本を自力で精読するのは本当に骨の折れることだけれど、今までもやもやしていたことが正確に分かることも多い。なによりそうした一字一句が自分の背骨になっていくような気がするものである。
さて言語にそうした偉大なものがあるのと同様に、建築にもそういうものがある。空間というか場所というか光か風か?渡邊先生の言葉を文字れば「偉大な空間をみつけよ」ということになるが建築家にとっては空間も一つのテキストであるから「偉大なテキストを見つけよ」でいいのである。それは言語同様に、自らのスケール、空気、光と言ったさまざまなものを相対化する定規なのである。
僕にとってそういうものがあるとすれば、それは篠原一男の『上原通りの住宅』である。http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/ja/ja0053/work/11.html繰り返すがそれは定規であってそれが好きとか嫌いとかいう問題ではないのである。それは大学時代、家庭教師先のはす向かいにあったし、もちろん恩師の設計であるし、そんなわけで、外人を連れて2度中にはいったし、アメリカではゲーリーのペントハウス住宅の不思議な形に類似して、このシュールなボールトにポップなアメリカ西海岸でさえ驚きの声を上げていたし、東海大の非常勤を勤めることになってまた毎週見ることになったし、ついに同じ通りに自ら住宅を設計することになりその建物も竣工したし。
もちろんテキストにしても建築にしてもただ参照できればいいというものではない。そんなことは当たり前だ、重要なのは、それらが持っている奥行きの深さであり、包容力、あるいは応用力と言ってもいいのかもしれないけれど、つまりはいろいろな悩みに答えてくれるということなのである。
さて、本当言うと、こうしたテキストが一つしかないのはまた問題であり、テキストも空間も10くらいずつ持っていられればその方がよいのかもしれない。しかしなかなかそうも行かない。先ずは1つ目からはじめるしかない。一つ目がきちんとあれば二つ目三つめはだいぶ早いはずである。幹がきちんとあってこその枝なのである。
果たしてみんなには偉大なテキストがあるだろうか?

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