コトバの変化



fig.5
図5:
乾久美子『そっと建築をおいてみると』


fig.6
図6:
石上純也『ちいさな図版のまとまりから建築について考えたこと』


 芸術対象としての〈出来事〉を語る岡真理は『記憶/物語』(岩波書店、2000)の中で「〈出来事〉が言葉で再現されるなら必ずや再現された『現実』の外部にこぼれ落ちる〈出来事〉の余剰があること。〈出来事〉とはつねにそのようなある過剰さをはらみもっており、その過剰さこそが〈出来事〉を〈出来事〉たらしめている」と言う。そして岡はそうした不可能性を乗り越え〈出来事〉を表現する方法として表現する主体の側から表現すべき〈出来事〉を操作(領有)するのではなく、表現すべき〈出来事〉の側から表現する主体に向かって押し寄せる強い波に自らを領有させるというあり方を提示する。たとえば千の言葉を尽くして伝わらない「怒り」が無表情と無意味なつぶやきだけによって伝わることもある。岡はこうした理屈を超えて状況が主体を圧倒するような状態を「疵」と呼び、その「疵跡」に受容側は過剰を見出すと言う。

乾や石上のコトバには既述の通り〈ヘテロトピア的場所〉や〈凝視する崇高〉が主題化されているが、加えてそこには岡が指摘する「領有された主体」や主体に刻まれた「疵」のようなものを感じる。たとえば二つのタイトル『そっと建築をおいてみると』『小さな図版のまとまりから建築について考えたこと』のいずれもが建築という行為主体の完結性を感じさせない。また乾における場所をめぐる様々な記述は状況を整理しようとする主体の側からのベクトルを廃し状況に晒された主体を示そうとしている。たとえば乾の最初の仕事である幼稚園の改修において、その幼稚園の記述は、職員室の書類の下に埋もれたウサギから始まりウサギで終わる。一体建築の改修をするのにその場所に置かれていた一匹のウサギがどういう意味を持つのかと不思議に思う。もちろんそこにはヘテロトピアとしてのこの場を読む乾の観察がある。しかしこの記述の意味はそこに留まらず、ヘテロトピアという〈出来事〉が乾を領有したことをも物語っている。ウサギは領有の象徴であり、乾が負った「疵」である。そしてこの「疵」が乾の中に溢れる過剰を最も効果的に伝えている。

一方石上の本はちいさな図版、文字が無数に詰め込まれたものである。先ずそれらの無限性が数学的崇高を帯びてこちらを圧倒する。加えて小さく、色味が薄れた無数の文字群はすでに意味をなすシンボル機能を失いかけわれわれに凝視(contemplate)を迫る。そしてもはや掬い取りが不能となりこぼれ落ちた文字は紙面上に石ころとして散在し物質化する。これら無限の石ころは設計プロセスの中で現われ消える〈出来事〉の泡沫である。それらミクロの泡の集積は設計中に彼を包み込み領有し「疵跡」となってわれわれにその過剰を伝えるのである。

20年ほど前から起こった小説界でのコトバの変化はやっと建築の世界に漂着した。小説界でのそれは社会の感受性の現われであり、それは建築を変えるし、建築を語るコトバも変える。どちらを先に変えたのかは後々の歴史家の検証項目である。先に変容した建築あるいは一般誌のコトバが建築家のコトバを触発したのか? はたまた新たに生み出されたコトバがさらに建築を触発するのかそれは未だ分からない。




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