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存在と生成

「生成」と「存在」の問題を考えていたらドゥルーズにたどり着いた。ドゥルーズがどう考えているかはとりあえず置いておく。自分はどうありたいのかを考えてみるなら、固定した「存在」より常に新しく「生成」されていたい。「存在」は細胞分裂が終わったはく製のようなもので「生成」していることが生きている証である。自分は常に変化していると思いたい。別の言い方をするなら成長していたい。
そこで日常の自分の生活を考えてみよう。自分は教員であり建築家である。一体そこで自分はどういう教員と建築家を生きているのだろうか?
人が職につく時は自分にあった職を探すものである。そのためにその職に必要な技術を身につけ作法を学ぶ。しかしその職に求められている作法や知性に100%合致した本性を持つ人間はいない。よって職が求めるペルソナを演じなければならない。そして仕事が終わるとそのペルソナを脱いで自分に戻るのが普通である。しかしユングが言うように医師や裁判官や教師は自分の仕事への自尊心がとても強く、仕事中の仮面が素顔に「食い込み」外せなくなるのだという。
つまりこうなった人は自分に戻れないのである。そしてペルソナという存在に入れ替わりペルソナという「存在」になってしまうのである。そうして固定した「存在」になるともはや「生成」は求めることも難しい。僕の周りにもこうしてペルソナに乗っ取られてしまった人が結構いる。可哀想なのだが本人はもうペルソナになってしまっているので気づいてないところがまた可哀想である。

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