「私」の文章
編集者Iさんと2時間話し執筆中の文章のターゲットを少し変えようということになった。これはなかなか難儀である。ずーっと理工系大学生のための教科書的なものという位置づけだったのが、少々広い分野の方々にも興味深いものと映るようにしようということになった。経済、文化、哲学、倫理、ファッションへと広がる話の、それぞれの分野の専門家にも読ませるものにしようという指示である。それを可能にするのは莫大な知識か、絶妙なレトリックではなかろうか?と思うのだが、Iさん曰く重要なのはなぜこの建築を語るのにこの社会学者のこの言葉があるのか、なぜこの哲学者が登場するのかその選球眼のオリジナリティなのだという。選球眼とはさまざまなボールを知っていてその中から選ぶから選球眼なので、僕は社会学者や哲学者のすべてのボールを知っているわけではなくて、言えばかなり偶然そのボールに出会っている場合もあり。アクシデントを記せても、チョイスを記せるのかはあまり自信がない。
Iさんの要求は難しいのだが、こうやって文章が良くなるのだろうなあと期待が大きい。その昔篠原先生にもっと「私」を主語として書きなさいと言われたのを思い出す。Iさんももっと坂牛の「私」を出してくださいとおっしゃっているのである。それならなんとかできそうな。やってみよう。