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見られる権利

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先日のゼミで人間は日常性の中に埋没して堕落(頽落)するというハイデッガーの指摘が話題になった。そして僕は自分の建築思考に最も影響を与えた哲学者はハイデッガーであり、自分の建築は人間が頽落から覚醒する装置にしたいと説明した。そのためには建築自体の力よりそれ以外のものに依存している。そこで一番大きい要素は人であり、隣人の視線だったりする。つまり覗かれるというような視線に緊張感を覚え頽落から覚醒するという話をした。ちょっとエキセントリックなたとえだと思ったのだが、今日山本理顕『権力の空間 空間の権力――個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社選書メチエ2015を読みながら、ああ山本さんも類似した考えがお有りではないかと感じた。氏はハンナ・アーレントを引きこう言う

完全に私的〈private〉な生活を送るということはなによりもまず、真に人間的な性格に不可欠な物が『奪われている』deprivedということを意味する」とアレントは言う(『人間の条件』87頁)なにが奪われているかというと「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われている」(同頁)のである。「他人を見聞きすることを奪われ、他人から見聞きされることを奪われる」(同頁)ということは、自分自信その周りの人々(他者)と共にいるという実感(リアリティ)が奪われているということである。

理顕さんの主張はもちろん公共性の意義をアレントを引いて主張しているのであり、かたや私の主張は個の頽落からの脱出である。一見異なる主張のように見えるが、ハイデッガーも人間が他者と共にあるという共存在という概念を主張しており、頽落からの脱出はすなわち共に生きるということに繋がるモノなのだと思う。アレントはハイデッガーと師弟(不倫)関係にあったわけで思考の根っこはかなり近いはずである。

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