ゲシュタルト的な塊を識別したがるのが人間
ゲシュタルト心理学が示すように、人間はものを識別する(区別する)本能的な能力がある。その場合あるもの(図)をその背景(地)から識別するための条件がいくつかある。図のまとまりがあること。図と字の間に輝度差があることなどである。まとまりがあるという言葉は妙に曖昧な感があるがヒトデのようなものより、饅頭のようなものの方が背景から浮き出やすいということである。この林のように沢山木は一本の木が立っているよりその塊を識別しにくい。
この人間の識別能力はもちろん視覚に限ったものではない。聴覚においても我々は音の塊を聞き分ける。運命のジャジャジャーンを始め、ポップミュージックのサビの部分などをよく覚えているのは聞き分けが容易であると同時にその音の塊は記憶の棚に置いて後日引き出し易いということでもある。味覚で考えてもスープに比べてカレーライスには具というものがありそこに味覚の塊がルーの中に浮遊していることに気づく。では触覚は?無理やりいうなら荒川修作の天命反転住宅は感触の塊がランダムに配置されザラザラ、ツルツル、凸凹、斜めを足の裏で感じ取るように作られている。そこには感触のゲシュタルトがある。焼き鳥屋やうなぎ屋の前には匂いのゲシュタルトが漂っている。
さて一方でこうした5感のゲシュタルトをあえて否定してフラットにしようという行為(表現)も簡単に思い浮かぶ。ミニマリズム音楽、ポタージュスープ、平らで同一素材の床、無臭の空間、モネの絵などである。
五感がゲシュタルトを感じ取る場合その対象の価値が高まる必然はないのだが、往々にして人は識別しやすいものに価値を見出したがる。理由は分かりやすく、人を説得しやすく、記憶に残りやすいからである。モネの絵は当初完成品ではないと酷評されたのも分かりにくいからであろう。ミニマルミュージックを嫌う人のほとんどはメロディーが無いと思うからである。しかしそれが絵画や音楽の価値を下げるこにはなるまい。
こんなことを長々と書いたのは建築の評価もゲシュタルト的に識別しやすいことに重きが置かれる傾向があるということに最近気づいたからである。一昨日の川久保玲のように分かりづらいものの置き方には思考を彷徨わせる意図がある可能性もあるのであり、それこそが受容者の想像性を掻き立てる真の象徴性を兼ね備えた場合もあるのである。
もちろん識別できないことが説明能力のあるいはプレゼン力の不足によるのであれば論外なのだが。